北奥三国物語 

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仙人鉄鉱山 会所札                                     2019/06/30

◎仙人鉄鉱山 会所札
 「仙人峠」は、和賀と釜石の双方にあり、鉄鉱山は双方に存在していた。画像は鉱山で使用された預切手で、確か和賀のほう。庚午とあるので、明治2年に発行されたものだ。
 印判はただの文様でなく、文字をデフォルメしたもので、印章(判子)で用いられる技法だ。意味があるが、解読資料をどこかに紛失してしまった。

 この札は「仙人」と字面が良く、風格もある。
 発行数が少ない希少札だから、人気の方も高い。
 一貫文はそれなりに存在しており、市価で概ね4、5万くらいからになる。一度ヤフオクに出品されており、3万弱くらいで落札したようだが、出品者はこの札のことを知らなかったと思われる。
 落札できた人は幸運だ。

 五貫文は難穫品で、市場で見ることは無い。取引例もほとんど無いから、値段が付けられない。よって売り手と買い手が合意した値段となる。盛岡切手の細札(こまさつ)か八戸藩札に匹敵するくらいの希少さだと思う。
 金種は、さらに五百文というものもあるが、小額なこともあって、さらに希少だ。これを実見したことのある人は少ない。

仙人鉄鉱山会所札 銭五貫文預
仙人鉄鉱山会所札 銭五貫文預

仙人鉄鉱山会所札 銭一貫文預
仙人鉄鉱山会所札 銭一貫文預

開炉祝鋳七福神銭                                      2019/01/19

◎開炉祝鋳 七福神銭
 銭種は「大迫銭座の開炉の際に、これを祝して作成されたもの」であり、「祝鋳七福神銭」と呼ばれている品です。
 実際に幕末・明治初年に盛岡藩の銭座で作成されたと見られる品は、これまで十数品程度しか見つかっていません。
 それと少し製作の違う品がやはり少数枚存在し、これまで謎とされて来ました。
 製作が明らかに古いのに、地肌が平滑で、あたかも母銭のような仕上がりになっています。
 本銭があまりにも希少なので、これまで写し・模造品も作られていないのですが、出自がよく分からなかったのです。

 以下は私見です。
 この品は、二十五年くらい前に、偶々、入手出来たものですが、その時に、「製作から見て、二期銭の仲間ではなかろうか」と考えました。
 そこで、二十年ほど放置し、古色変化を見ましたが、盛岡銅山銭の二期陶笵に極めて近似しています。
 特徴は次の通り。
・正規母銭を使用して作られ、銭径がほとんど変わらない(「写し」ではない)。
・母銭式である。
・流通の痕跡がある。
 確証は無いのですが、この場合は価値が下がるのではなく、さらに古い品である可能性があるという意味です。

 味は最高です。
最初に見たときには、「こういうのを瞬時に判断できないようでは」、「金を惜しんでいるようでは」、南部銭の収集など出来ないだろう、と思いました。
 この後、大化けに化ける余地を残しているのですが、もはや収集を止めることにしましたので、手放すことにした次第です。





盛岡銅山銭 二期陶笵銭                               2019/01/17

◎盛岡銅山銭 二期(陶笵)銭
 盛岡銅山銭の二期銭(陶笵)は、明治30年に、岩手県勧業場で、鋳造技法を研究することを目的に作成されたものです。
 表面が極めて平滑ですが、これは母銭製作を企図したものだからです。
「二期銭」もしくは「陶笵銭」という呼称は、新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』に基づくものです。
 新渡戸の『岩手に於ける鋳銭』では、「良質な母銭を作成する目的で」、砂笵を焼き固めて硬くした由が記されています。通用銭でも、砂型を火に炙って固めますが、敢えて「焼き固めて」と記したのは、要するに「窯に入れた」ということではないかと考えられます。

 ちなみに、明治30年と特定出来るのは、場内で鋳造法を実際に研究したのは、この年が最初で最後であるからで、岩手県立工業試験場の機関史を紐解けば容易に分かります。
 勧業場は明治初期に設立された岩手県の施設ですが、殖産興業を目的として、職業教育を施したり、県内産品を各地の博覧会で展示し販売したり、といった活動を行いました。
 鉄瓶もそのひとつで、当初より勧業場は県内作家の作品を博覧会で展示・紹介していた模様です。
 その活動の一環として、鉄瓶製造法を職業訓練教育に取り入れるかどうかを検討するために、この年に鉄瓶職人より鋳造法を学んだわけです。
 実際に「勧業場」銘の南部鉄瓶が残っていますが、職人が一人前になるまでかなりの年月を要する技術ですので、教育科目として組み込むのは困難で、翌年からは紡績が訓練科目として採用されました。
 このため、勧業場の経理文書には「鋳造法」という科目はなく、「博覧会」に含めてられています。
 担当職員は、砂子沢、宮の2名で、彼らは一般職員でした。
 このうち宮福蔵は後に、個人でも鋳銭を試みています。

 新渡戸仙岳は、明治30年に岩手県教育界の教育長に就任するのですが、配下の出納係が公金を横領する事件を起こしたため、その代表責任を取り、1年限りで教育長を引責辞任しました。
 新渡戸は教育長時代から、盛岡・八戸両南部藩の資料を収集し、その解読・整理に努めました。
 古文書を整理するだけでなく、直接の当事者にも話を聞いたのですが、その一環で、県庁のつてを通じ、鉄瓶職人や勧業場からも情報収集を行った模様で、鋳銭法の記述には、銭座職人ではなく鉄瓶職人の言い回しが使われています。
 「陶笵銭」もそのひとつで、鋳銭職人であれば、単に「母銭」とのみ呼称します。砂型を硬く焼き固めることは、母銭製作に当たっては「ごく当たり前」の手法であるからです。
鋳銭の用語では、「陶笵」は「銭笵」と呼ぶ方が普通です。
 なお三期銭は、二期銭(母銭)を使用して作った通用銭のことを指します。

 さて、、明治末になり、二期銭が東京に渡ると、業者の手を介しているうちに、「勧業場製」の情報が欠落しました。これは「あら川銀判」が古銭市場に出た時の状況に似ています。地元では周知のことでも、中央で売られる時には、元の情報が秘匿されます。
 元々、二期銭の鋳造は古銭を模造しようとしたものではなく、あくまで製造法研究の一環だったわけですが、やはり製品は一人歩きをします。
 東洋貨幣協会の品評には、「煙草坊(水原庄太郎)出品」として、二期銭、三期銭が記載されています。
 明治末から大正期において、地元岩手では、古銭に大枚の金を使い、収集するような文化・価値観も無ければ、それを売買する市場もありませんでした。しかし、東京と大阪にはそれがあります。

 東京の収集家は、新渡戸の著作と、この現品としての二期・三期銭を同一視し、疑問を提示します。
 そもそも、新渡戸と勧業場の鋳銭にはまったく関わりが無いのですが、双方が東京に渡っていく途中で、同一視されるようになるのです。
 実際に、煙草坊は「当品は『岩手に於ける鋳銭』に記載された品である」として、品評を寄せています。
 その結果、収集家の矛先は新渡戸に向けられるようになり、新渡戸の著作を否定する動きが生まれました。大正期には、ある高名な収集家が新渡戸を詰問するために、岩手を訪れます。
 しかし、新渡戸にすれば、現品の出自は自身とは関わりが無いので、その収集家の言い分は単なる言い掛かりに過ぎません。
 このため、新渡戸はその収集家に会うことは無かったのです。

 事態はさらに複雑になります。
 大正から昭和初期にかけて、新渡戸は活発に研究活動を進めていますが、これは「南部史談会誌」などによって明らかです。この会には、勧業場の宮、砂子沢の他、小笠原白雲居、小田嶋古湶らも参加していました。
 昭和十年頃には、小笠原白雲居や宮が盛岡藩の希少貨幣を鋳造しています。
 昭和十三年頃から、日本は戦時下に突入し、国民全員が窮乏します。これには、郷土史家や古銭収集家も例外ではありません。
 新渡戸はこの頃に子を亡くし、それ以後は生活に困窮します。
 昭和16年頃には、いよいよそれが限界に達しますが、その時に、かつての経験を思い出します。
 すなわち、「東京の古銭収集家が高額な金を出して銅山銭を買った」ことです。
 新渡戸は、宮、砂子沢より二期銭の提供を受けていたので、これを売ろうとしました。しかし、国全体が困窮した時代でしたので、売れることは無かった模様です。
 戦後間もなく、新渡戸は困窮生活のまま物故しました。

 その後、さらに展開が替わります。
 昭和四十年代になると、コインブームが起き、一般市民までが希少銭を追い求めるようになりました。
 業者はさらに古銭が売れるように演出し、また収集家は古銭以外の情報収集には「まったく興味を持たない」ため、虚偽の情報が流布されるようになります。
 さらには、新渡戸の後進が、新渡戸本人が「古銭を東京に売らせたと言った」(=昭和十六年頃のことを指す)と記したので、地元を含め、収集家がそれに飛び付きました。
 曰く、「盛岡銅山銭二期銭、三期銭を作ったのは、新渡戸仙岳である」。
 まず地元収集家の一人がが「大正の初め頃に新渡戸が作った」と書き、東京の天保銭収集家がそれを丸写しして、収集界に流布しました。
「大正の初め頃に」という表記で、これが単なる憶測だったことが明らかです。
 銅山二期銭の由来の多くはフェイク情報なのですが、地元収集家が書き、それを引用した東京の収集家が書き、さらには煙草坊本人が「新渡戸は古銭家を騙すために作ったわけではない」と書くに及び、今ではまるで定説のような扱いになっています。
 煙草坊は「自身が初めて、東京に二期銭を出した」ことに言及しておらず、事実上、責任を新渡戸に被せることを行っているのです。「贋作目的ではない」と言及することは、「新渡戸が作った」と言うことを認めたことになりますが、もちろん、事実ではありません。
 さて、この品は、小川青宝楼の旧蔵品ですが、事実上、かつてある人が「まるで古鋳品であるがごとくに研磨して」と怒った品ではないかと思われます。
 実際に、面背とも使用による小傷が見られ、それに悩ませられました。
 「使用している」のであれば、「流通を目的にしたもの」である可能性があるからです。

盛岡銅山銭 二期銭
盛岡銅山銭 二期銭

盛岡銅山銭 二期銭
盛岡銅山銭 二期銭

 その後、解明に25年くらい掛かりましたが、結論は簡単でした。
 使用されているのは、「実際に、三期銭の鋳造の際に母銭として使用した」という理由でしょう。
 多くの収集家が青宝楼に見せて貰い採拓したのか、墨の痕も残っています。
 二期銭は未使用で厚手の品がほとんどですが、「母型として使用した」という意味では、資料としての価値が高いと言えます。

盛岡銅山銭 二期銭
盛岡銅山銭 二期銭

盛岡銅山銭 二期銭
盛岡銅山銭 二期銭

敢えて長短所を記せば、次の通りとなります。
●短所
 ・幕末・明治初年頃の銭座の製作ではない。
 ・明治中期のもの。
◎長所
 ・公的機関により、正規母銭を使用して鋳造されたものである。
 ・母銭式である。
 ・実際に母型として使用されている(三期銭の)。
 ・代々の収集家が資料として保管して来た。

 30年くらい前に入手したものですが、二期銭の当時の相場の2倍くらいの評価でした。
 二期銭としては、最高の状態だと思います。(この場合は、「未使用に近い」のではなく、「実際に使われている」という意味での評価です。)


寛永当四銭・背下点盛の出自について(その2)          2018/11/03 (姫神旅人)

3.現品の出自を紐解く   
 さて、以上は、大本の資料に掲載された「降点盛字」銭に関する記述であった。 
 問題は、資料上の「降点盛字」銭と現存品(「下点盛」)がどのように繋がっているかということになる。
 そこで、昭和十年以降、各段階の拓影および画像を見比べてみる。
 まず重要なのは、後鋳品の存在に関する記述である。
 「次に県内にある類品を調べてみると(1)に属すべき何物をも発見しないが、ただ(2)に属するものは僅かに数枚あることは分かった。 しかもその全部が宮氏旧蔵品から生まれた後鋳銭で(4、5)、銭径も著しく小であり、鉄鋳のものも同様である。」
 すなわち、3が宮福蔵の旧蔵品で、4567はそれを元に作成した後鋳銭となる。
 よって、県内に於ける正品らしきものは3枚で、そのうち1枚目はこの品のみ。2は宮氏より小田嶋に渡った品で、2より生じた類品は総て後鋳品であり、鉄銭も同様に後鋳品である。
 これにより、原点に近い銭影は、当該資料の2と3が該当することになる。この他には、宮福蔵から東京の平尾賛平に渡った白銅母銭が正品となる。
 (なお、「東京方面に見られる降点盛字銭は、宮氏の旧蔵品より生じたもの」であるから、すなわち他は総て後鋳品である。)
 そこで、『南部史談会誌』掲載3品と大川蔵の1品、計4品を基準に、その他の品を見比べてみると、次のことが言える。
イ)「背盛字銭の新研究」掲載3品の銭影は拓本ではない。
 輪の形状に歪みがあり、拓本を基に謄写版に針で掻き写したものと見られる。このため、輪幅が狭くなっている。
ロ)大川蔵の母銭に比して、銅銭は著しく小さい。
 『南部藩銭譜』の掲載拓(真贋不詳)はともかく、『日本古銭価格図譜』の拓本や現存品は銭径がかなり小さい。
 「背盛字銭の新研究」には「東京方面で見られる銅銭は後鋳品で、著しく縮小している」とある。
ハ)「背盛字銭の新研究」の(1)のみ、小田嶋古湶が大正7年に大迫より入手した品であり別経路であるが、(2)(3)および大川蔵は総て宮福蔵を経由している。
 このうち、東京方面の品は、大川蔵品を含め、総て(2)の系列品である。
 (ただし「鋳浚い変化によるものか、面文に小異がある」とも記載されている。)
(1)目視による型の独立性の確認   
 鋳浚い母銭とされる大川蔵(イとする)と、昭和初期の銭影である「南部藩銭譜」掲載拓(ロ)および「背盛字銭の新研究」で関連を指摘された2枚(2=ハ、3=ニ)と、現存する銅銭を比較照合し、現存品がどの系統から生じたものかを明らかにする。
 まず目視で各々を観察すると、次のような相違が見られた。

目視による確認
目視による確認

 宝足ではイとハが「ハ貝宝」で、ロ、ニ、ホが「ス貝宝」となっている。
 また、永字と内輪との間隙に着目すると、イとロは狭いのに対し、ハ、ニ、ホは広くなっている。

特徴整理表
特徴整理表

 ただし、目視のみでは、往々にして錯覚がもたらす誤判断が生じる。
 イは母銭であり、他銭よりひと回り大きいので、まず最初にイのサイズを縮小し、比較可能にする。ここでの対象は、書体に近似性(ハ貝宝)のあるハである。

サイズ調整法
サイズ調整法

銭径の比の取り方
銭径の比の取り方

 この場合、基準となるのは、内郭の外側である。このサイズを揃えると、内輪、外輪までの距離より、基本的な意匠について同一か否かを見取ることが出来る。
 イは母銭であり、他銭よりひと回り大きいので、まず最初にイのサイズを縮小し、比較可能にする。ここでの対象は、書体に近似性(ハ貝宝)のあるハである。
 ここで基準となるのは、内郭の外側である。このサイズを揃えると、内輪、外輪までの距離より、基本的な意匠について同一か否かを見取ることが出来る。
 イとハの内郭、内輪のサイズを揃えると、ハはイの93%程度の比率となる。
 仮に出発点(=原母)が同程度の規格だったとすると、ハはイより7%程度縮小していることになる。
金属の凝固縮小率については、純銅の1100℃溶解の際の凝固収縮率は4.2%である。(他、錫では2.6%、鉄では4.4%となる。)
 この貨幣が合金製であることや、砂型の縮小、さらに輪側の処理による誤差を考え合わせると、イから見て次世代に相当する縮小範囲であり、孫写しではないと見られる。
 ちなみに、収集界では、銭径に気を払うあまり、外径、内径をこと細かに調べる人がいるが、銭径の数値だけでは言えることは少ない。
 「○○ミリメートルだった」という事実と、他と比べて単純に「大きい」か「小さい」が言えるだけである。
基準を揃えたときに、初めて「○○%小さい(または、大きい)」という関係性が記述可能になる。

 さて、ここで注記すべきは、ハとニの情報の特殊性である。この2つは拓本を基に、謄写版に針で掻き写した銭影とみられるが、手作業によって生じたようなブレが確認出来る。
 内輪のゆがみや、ハの寛の前足はこうして生じた変異ではないかと推定される。
 以上の検討の結果、より多くの共通点を持つのは、ニおよびホとなる。(ただし、ニについては基になった銭影を完全に反映しているとは限らないことに留意が必要である。)
(2)透視図法による共通性の確認   
 さて、目視だけでは心許ないので、透視図法を用いて、ニとホの共通性を観察する。
 手法は極めて簡単で、銭影を半透明に変換し、相互に重ね合わせてみるというものである。これをPC上で行う利点は、サイズ合わせをするために、画像を拡大もしくは縮小した際に、何パーセント拡大(または縮小)したかということが分かることである。

透視図法
透視図法

透過図への変換
透過図への変換

 サイズを調整すると、図ニを97〜98%に縮小すると、現存品ホのサイズと同等となる。
 なおこの場合、4つの文字の位置関係が一致するが、一箇所、宝字の後ろ足と内郭左下の間に若干の隙間が出来る。
 これについては、内角当該箇所の形状が歪んでいることから、この位置にアタリがあることが原因であると推定される。

現存品(ホ)とのサイズ合わせ
現存品(ホ)とのサイズ合わせ

 銭影ニとホとを重ねてみると、内輪の内側の意匠は完全に一致する。外輪だけが僅かに広い程度の違いしかないことが分かる。
 念のため、さらに別の現存品(ヘ)の画像と、ニとを重ねてみると、こちらは意匠、内外輪のサイズとも完全に一致した。

ニとホ(現品)との照合
ニとホ(現品)との照合

 このため、現存するホおよびヘの2品は、いずれもニの系統に属する品であることは疑いない。
 これは現今の収集家にとっては、あまり良い材料ではないだろう。
 何故なら、現存2品の起源となるニは実物に忠実な拓本ではなく、謄写版の職人が拓本を基に「手で描いた」情報であるからである。
 また謄写版情報ニと昭和初期の生拓本との間には型そのものに若干の相違が生じている。
 すなわち、現品が昭和初期に存在していた品のいずれか系統に属するなら、ここでもニとの間に幾らか不突合が生じている方が自然ではないだろうか。

追加事例(へ)との照合
追加事例(へ)との照合

 以上を整理すると、次のようになる。
1)昭和初期において存在していた降点盛字銭は確定4品(岩手3+東京1)で、推定総数10品程度。いずれも銅銭である(母含む)。
 事実上、稟議銭の扱いであり、そもそも鉄銭はない。
2)現存品のうち2品は、謄写版に記された銭影と起源が同じ。謄写版記載の銭影は当時の拓本(大川拓および新渡戸拓)とは一致しない。職人が謄写版に写したものだからである。
 このため、現存品(2例)の基になった銭が、謄写版に使われたのと「同じ型のものだった」、もしくは「新しくそれから作った」の2通りの解釈が出来る。     (了)

備考)付帯的状況について  
● 「岩手勧業場にて盛岡銅山銭二期・三期銭を作成した際に、下点盛が同時に作られた」という説がある(口碑である)。なお勧業場による鋳造実験は明治30年の一度きりである。宮、砂子沢両名が担当者だったが、両名とも鋳物職人ではなく一般職員だったと見られる。この年の勧業場に鋳物担当教官はおらず、「博覧会用」の経費科目で鋳造実験を行っていた。なお鉄瓶など鋳造法の研究を行ったのはこの年だけで、翌年からは紡織中心となった。このため、勧業場で貨幣を作った年次を特定出来ることになった。
 明治30年の鋳造であるから、勧業場鋳造実験に対する新渡戸仙岳の関与は無い。
 この年、新渡戸は岩手県教育長に就任しているため、他部署に関わることは無い。
  後年になり、新渡戸は「岩手に於ける鋳銭」の記述を補足・補正するために、南部史談会を通じ、宮、砂子沢両名から情報を得たのだろう。両名は一般職員だったので、同著が銭座職人の言い回しとは異なる表現を使用している。
 例えば、「陶笵銭」のことは、銭座職人であれば、単純に「母銭」と称する。
 あるいは「砂型ではなく銭笵により作成した銭」だと言ってもよい。
 陶笵技法は、鋳銭工程に於いては、母銭を作成する通常技法であり、特殊なものではない。

●昭和十年頃に宮福蔵が摸鋳を行った記録がある。銭種は下点盛および背モ、等。
 明治から昭和戦前記にかけての古貨幣の作成には、必ず宮福蔵が関わっている。

●昭和16年には、小笠原白雲居が下点盛の銅鉄銭、背山等の摸鋳を行った。
 後鋳品については、いずれも販売された形跡は無く、おそらくその製作意図は「知りたいから」「面白いから」という主旨であったと推定される。
 地元のものを「作ってみたい」と思うのが岩手県民気質らしく、後の古銭会会長K氏も複製品を作るのを道楽としていた。

明和大頭通、背盛銅母銭とのサイズの違い
明和大頭通、背盛銅母銭とのサイズの違い

●昭和40年代以降に地元で作成された品は、上記とはまったく異なり販売目的である。正規母銭より作成されているので、どのように形状を眺めても分からない。地元収集家に訊ね、製作を確認する必要がある。ネット上に安価で出ている品は、大半が後鋳品であることに注意が必要である。
●降点盛字銭の生成に関する小田嶋古湶の見解
 以上諸氏の考察中(1)(2)の書体の相違を鋳浚の結果とするに対し、更に卑見を開陳して置きたい。水原・新渡戸両氏の高見の如くはこの両種は正に原母を等ふするものであり、従って殆ど同一種のものとなるから、その考証は根底から覆ることになるが、然しこれについては次の疑問が生じてくる。 即ち長期に亘り鋳造せるものほど鋳浚い回数もその量も多かるべき筈であるが、盛字異書の如く極めて短期の鋳造と思わるるものは決して鋳浚回数が多かったとは想像されぬ。従って回を重ぬるたびに小異を生じ、遂には似もつかぬに変化したとは考えられぬ。

昭和初期以降の降点盛字銭の系統図
昭和初期以降の降点盛字銭の系統図

●下点盛の製造法に関する暴々鶏の見解
 鋳造貨幣を作成する初段階は「彫り母」を作成する。多くは金属板に下絵を貼り付け、これを彫金師が彫り、面背片面ずつ彫金したうえで、両面を貼り合わせるという手法をとる。その場合に念頭に置かれるのは、「数十万枚の製造に耐えられるような母銭を作る」ことと、そのために「砂型から取り出しやすい形状にする」ことである。このため、外郭、内郭、文字面について、互いに高さが違っていることが多い。また文字部分については、先端の方が細くなり、根元が太いという、「取り出しやすくするための傾斜」がついている。
 しかし、この下点盛の現品については、そういう配慮が見られない。郭、文字面とも極めて平坦なつくりになっている。これは鋳造貨幣の製造ラインから外れるものであり、別のもの、例えば印判の作り方に近似している。小田嶋が指摘した通り、この銭の場合は、1枚の彫り母から代を重ねる度に変化が生じたものではなく、複数の始発点が存在する。
 それは具体的には「印判」であろうと推定される。
 「下点盛」銭の発祥は、丸い判子に印判職人が彫ったもので、小異はその時既に生じていたものだろう。
 輪幅が狭くなるきらいがあるのは、印判を彫っていた時の習性による。
 以上を簡単に言うと、下点盛銭は「流通貨幣を想定して作られたものではない」ということになり、すなわち作品であると考えられる。

 以下は暴々鶏の私見である。
 宮福蔵の蔵を経由していない品は、事実上、「南部史談会誌」掲載の(1)のみで、これは他の降点盛字銭および下点盛とは書体が著しく異なる。この図の基になった1品については信憑性を検討する余地ガあるのだが、現在、当品は消息不明である。
 他品は概ね、宮福蔵の所蔵していた母銭に端を発するものであり、昭和初期時点で、降点盛字銭の母銭は1)宮福蔵が所有していた品と、2)宮福蔵から平尾賛平、大川鉄雄に渡った母銭の2枚しか存在しない。
 当銭種は雑銭より発見される性質の品ではなく、事実、その後、岩手県内で正品は1例も見つかっていない。
 そうなると、後鋳品は1)宮福蔵が所蔵していた品から派生した(=作られた)か、2)東京の母銭を基に作成されたか、あるいは、3)新たに作られた品(小笠原作品含む)であることになってしまう。
 これを一行で書くと、 「降点盛字銭は、かつては存在したのかもしれないが、現在の下点盛銭とは別のものである」 ということになる。

寛永当四銭・背下点盛の出自について(その1)          2018/10/31 (姫神旅人)

1.はじめに  
 やはり今回も苦言から始めねばならない。
 二十年以上前のことになるが、古銭会を通じ、「小笠原白雲居製の背下点盛鉄銭」を複数枚提供したことがある。その際、購入者に伝えたことは、「研究材料として提供するものだ。このため、くれぐれもこれが本物として世に出ることがないようにして欲しい」ということであった。
 しかし、往々にして起きることだが、時が経つと「研究資料」の但し書きが消失し、複製品が本物として市中に現われる。どうやら、これが実際に起きている。
 恐らくは、所有者が幾人か替わってもいるのだろうが、根幹部分が伝わっていないのである。
 この件に関しては、公にすることなく、収集家数人だけで共有するつもりであったが、昨今の状況を踏まえ、資料として遺すことにした。
 
 まず、用語の使い方として、以下を区分する。
「降点盛字」銭  : 大正から昭和戦前期に、地元収集家が見ていた実際の品を指す。
 「下点盛」銭   : 現在、当該品として市中にある品を指す。大半が大正から昭和戦前において作成されたものである。
 さて、結論を冒頭に書く。
 正品としての「降点盛」は、かつては少数枚(確定2種3枚、総数は推定10枚)だけの存在であった。これは『南部史談会誌』(第十五号、昭和十年)に明確に記載されている。
 現存品の殆どは、この資料に掲載された図より作成された品である。(古拓には若干、現品を確認できない品があるため、「殆ど」とした。また、さらに東京に渡った白銅母銭、およびそれより作成された品があると考えられる。)

背下点盛の各種
背下点盛の各種

2.「降点盛字銭」の発祥
 ここでは、明治期から昭和に至るまでの南部貨幣の研究史の中で「降点盛字銭」および「下点盛」がどのように紹介されてきたかを概観する。なお、報告文であるから、文中の氏名の敬称は略させていただく。 
(1)『岩手に於ける鋳銭』(新渡戸仙岳、昭和九年)に於ける「降点盛字銭」
 新渡戸仙岳は岩手県の郷土史研究者であり、教育者である。新渡戸はまだ三十台の頃、明治三十年に岩手県の教育長となるが、すでにこの時点で、郷土史の整理を盛んに行っていた。この頃の著作もしくは研究ノートと見られるものは、『銭貨雑纂』『室場当百銭に就きて』『銭貨に就きて』などである。これは、執筆に使用した鶺鴒(セキレイ)に「岩手県教育会」の文字が印字されていることで分かる。
 明治末から大正の初めには、『岩手公論』や『岩手日々新聞』を通じ、「岩手に於ける鋳銭」(「破草鞋」)の執筆が行われ、この中の「栗林銭座」の項に、初めて「降点盛字銭」の記述が現われる。
 『岩手に於ける鋳銭』の最終稿は昭和九年となるが、この中では、栗林銭座で製造された銭種として、下記が挙げられている。 
 イ.他銭座銭(=外川目銭座)である「背盛字銭」と「同無背銭」
 ロ.本銭座特有銭として「縮字銭」、「濶永字銭」および「降点盛字銭」
 ちなみに、「縮字銭」、「濶永字銭」は現今で言うところの「広穿」、「仰宝大字」が該当するものと思われる。なお「山形無背」すなわち今で言う「仰宝」の記述は無い。
 また、それまで使用してきた「背盛異書」(『銭貨雑纂』)という表記が、ここでは「降点盛字銭」と改められており、事実上、この時が当該銭の最初の記述となる。なお「背盛異書」の方の命名自体は水原庄太郎のようである。

新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』昭和九年稿
新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』昭和九年稿

(2)「背盛字銭の新研究」 に於ける「降点盛字銭」(小田嶋古湶、『南部史談会誌』、昭和十年)
 翌昭和十年になると、南部史談会に於いて当該銭の検討が行われ、この議論の経緯を小田嶋古湶が報告している。 なお、小田嶋古湶は浄法寺町出身の考古学者で、縄文・弥生遺跡の発掘に心血を注いだ人物である。
 当資料は初期段階に於いて詳細を伝える重要なものであるため、全文を掲載した上で、解説を加える。
なお、新渡戸仙岳は、降点盛字銭について、「宮福蔵氏所蔵の白銅母銭2枚」を正品とみなしている。水原庄太郎は、さらに、宮福蔵より平尾賛平に渡った銀(または白銅)母銭等、を加えると、「降点盛字銭の存在数は十指(十品程度)」と推定している。

国書刊行会より復刻版が出ている。盛岡の古書店で入手可能。
国書刊行会より復刻版が出ている。盛岡の古書店で入手可能。

当時の謄写版資料
当時の謄写版資料









3.現品の出自を紐解く  
 さて、以上は、大本の資料に掲載された「降点盛字」銭に関する記述であった。 
 問題は、資料上の「降点盛字」銭と現存品(「下点盛」)がどのように繋がっているかということになる。



 そこで、昭和十年以降、各段階の拓影および画像を見比べてみる。
 まず重要なのは、後鋳品の存在に関する記述である。
 「次に県内にある類品を調べてみると(1)に属すべき何物をも発見しないが、ただ(2)に属するものは僅かに数枚あることは分かった。 しかもその全部が宮氏旧蔵品から生まれた後鋳銭で(4、5)、銭径も著しく小であり、鉄鋳のものも同様である。」
 すなわち、3が宮福蔵の旧蔵品で、4567はそれを元に作成した後鋳銭となる。
 よって、県内に於ける正品らしきものは3枚で、そのうち1枚目はこの品のみ。2は宮氏より小田嶋に渡った品で、2より生じた類品は総て後鋳品であり、鉄銭も同様に後鋳品である。
 (※注記:この時点で「鉄鋳は後鋳品」という扱いになっている。)

「降点盛字」から「下点盛」へ
「降点盛字」から「下点盛」へ

 これにより、原点に近い銭影は、当該資料の2と3が該当することになる。この他には、宮福蔵から東京の平尾賛平に渡った白銅母銭が正品となる。
 (なお、「東京方面に見られる降点盛字銭は、宮氏の旧蔵品より生じたもの」であるから、すなわち他は総て後鋳品である。)
 そこで、『南部史談会誌』掲載3品と大川蔵の1品、計4品を基準に、その他の品を見比べてみると、次のことが言える。

イ)「背盛字銭の新研究」掲載3品の銭影は拓本ではない。
 輪の形状に歪みがあり、拓本を基に謄写版に針で掻き写したものと見られる。このため、輪幅が狭くなっている。
ロ)大川蔵の母銭に比して、銅銭は著しく小さい。
 『南部藩銭譜』の掲載拓(真贋不詳)はともかく、『日本古銭価格図譜』の拓本や現存品は銭径がかなり小さい。
 「背盛字銭の新研究」には「東京方面で見られる銅銭は後鋳品で、著しく縮小している」とある。
ハ)「背盛字銭の新研究」の(1)のみ、小田嶋古湶が大正7年に大迫より入手した品であり別経路となっているが、(2)(3)および大川蔵は総て宮福蔵を経由している。
 この時点では、東京方面の品は、大川蔵品を含め、総て(2)の系列品である。
 (ただし「鋳浚い変化によるものか、面文に小異がある」とも記載されている。)
                                         (以下、その2に続く。)

◎岩手における打極印銭の実際について  (その3)      2018/10/27 (姫神旅人)

(3)戦後の贋造刻印  
 戦後になり、高度経済成長が始まると、次第に余裕が出来、娯楽やコレクションへの欲求が高まります。そういう中、昭和四十年代には、コイン・ブームが起きました。東京五輪の際に、千円銀貨が発行されますが、これはかつての一円銀貨に匹敵する仕様を持つ堂々たる貨幣でした。
 これが火付け役となり、コインに対する関心が一気に高まりました。
 それまで、コイン収集は、東京や大阪の一部の富裕層の娯楽だったのですが、一般の人も興味を持つようになります。五輪千円銀貨は一時期、一万五千円前後の相場で取引された時期があります。
 それと共に、コイン・古貨幣の価格は全般的に上昇しました。
 しかし、そういう関心も見栄えのする金銀貨や皇朝銭など有名な穴銭に向けられていました。
 地方の貨幣は、まだまだ安価に手に入った時代です。
 そこで、盛岡在住の収集家二氏が思い付いたのは、「仰宝の母銭は高々二、三千円だが、米字極印を打てば評価が数倍になる」ということです。
 そこでその収集家は、刻印師に発注し、多種の極印を作らせ、これを寛永銭の仰宝や背盛といった母銭に打ち、東京方面に出荷したのです。
 すなわち、戦前の刻印とは製造目的を異にする刻印銭が多数作られたのです。

戦後の贋作刻印 試打プレート
戦後の贋作刻印 試打プレート

 現在、ネットに流通し、比較的安価に入手出来るのは、この時の品となります。
 母銭に打たれる時に、刻印は斜めに入ったり、かたちが不完全であったりしますので、見極めるのはやっかいですが、形状をよく確認し、さらに打ち方の違いなどを参考にすると、分かりよくなります。

背盛母銭に打たれたニセ刻印
背盛母銭に打たれたニセ刻印

仰宝母銭に打たれた偽刻印 ※台、刻印とも偽物
仰宝母銭に打たれた偽刻印 ※台、刻印とも偽物

○現品の検証  
  盛岡の二氏が作成した偽刻印は、試打プレートが残っていますので、これと同じものであれば贋作です。またこの他にも同じような目的で作成されたものが存在するようですので、まずは信頼の置けるルートから真正品を入手することです。くれぐれも、ネットや入札に出ている安価品には手を出さないことが肝要です。

各種米字極印・刻印の形状比較
各種米字極印・刻印の形状比較

 最後に掲示するのは、「小極印」(当百銭の極印)を模したものだと考えられますが、当百銭には使用されていないものです。また、極印銭は本来、山内通用を目的とするものですが、沢山打ち込んでも特別な意味が生じません。
 これまで未解明の品が出て来た時には、「まずは原典に立ち返って」考えると、自ずから判断がつきます。     (了)

背盛小極印打 ※台は山内母銭だが刻印は疑問品
背盛小極印打 ※台は山内母銭だが刻印は疑問品

◎岩手における打極印銭の実際について  (その2)      2018/10/26 (姫神旅人)

(2)明治中期以降、戦前までの打刻印銭  
 寛永銭に何らかの刻印を打ち、使用した例は、明治中期以降にも見られます。
 最も多いのは、一文銭に打刻したものです。
 収集界では、この類の打刻印銭を「上棟銭・記念銭」とひと括りにしますが、盛岡藩では少し事情が違います。
 「上棟銭」を紐解くと、辞書には「上棟式の日、祝いとして棟の上から集まった人にまくお金。神社・仏閣などでは、特に鋳造した絵銭を用いることがある」と書かれています。
 このうち、絵銭は神社・仏閣に限定されますので、これを除外すると、一般の建物で撒かれるのは、1)普通に使える貨幣、2)刻印を打った貨幣、3)彩色を施した貨幣、等が該当するのではないかと考えられます。
 昭和四十年代までは、新家屋の上棟式の際に屋根の上から、餅を撒く習慣が残っていました。その際、餅と共に貨幣(五十円や百円)が撒かれることもありましたが、原則として「お金として使用できるもの」が撒かれていました。
 盛岡地方では、上棟式の際に何らかの加工・装飾を施した貨幣を撒いたという記録は見当たりません。
 明治の初めに、一代で財を成した三州屋という商人が、「御輿に乗って城下を練り歩いた際に、彩色を施した寛永銭を撒いた」という記録が残っていますが、他には見当たりません。

寛永一文銭に打たれた刻印の事例
寛永一文銭に打たれた刻印の事例

 ところが、盛岡より北、八戸にいたる範囲では、打刻印銭は比較的数多く見つかります。
 私は骨董商の「力」さんで、差し銭三本総てが打刻銭というケースを直に目にし、入手しました。
 店主によると、「盛岡周辺で打たれたもので、ごく普通にあるもの」だという話でした。
 収集界に行くと、それぞれにあらたまった由来が書かれているので、「想像力と言うのは計り知れない」と感じます。
 さて、本題に戻ると、この地域では、明治中期以降、昭和戦前にいたる期間に、打刻印銭が継続して作られています。もちろん、これは上棟式で使うためのものでは無いように考えられます。
 寛永一文銭は、一応、一厘として使用可能な現行貨でしたが、お金としては、ごく小額です。原則として「使えるお金」を撒いたとなると、戦前であれば、一銭から五銭、十銭あたりが妥当な銭種と思われます。
 簡単に言うと、「寛永銭一枚はわざわざ打刻して撒くほど、有り難い金額ではない」のです。
 では、どういう事情でしょうか。
 このことを解く鍵として、「八戸馬市」銭の所在が挙げられます。
 「八戸馬市」ははっきりした由来こそ分からないのですが、雑銭の中から時々見つかる銭です。戦前に括られた差から出ますので、少なくともその時代に打たれたものでしょう。
 収集界では、出自について熟考せず、「米字極印銭の偽物」のような扱いを受けることが多いのですが、それには該当しません。
 戦前に於いては、米字極印銭を作成しても、それに価値を見出し、高値で買う人など皆無でした。
 そもそも、米字極印銭は「母銭に打たれる」ものであるのに、この刻印銭はごく普通の当四銭に打たれています。偽物として機能しません。
 では、どういう意図によるものでしょうか。

「八戸馬市」 面のみに2箇所の刻印が打たれている。
「八戸馬市」 面のみに2箇所の刻印が打たれている。

 ヒントは「馬市」という言葉です。
 この地方では、戦前には馬市が、また戦後に於いては牛(べご)市が各地で開かれました。これは岩手県に中央畜産市場が出来るまで続きましたので、昭和四十年代まで存続していたものと思われます。
 実際に、私もべご市を見るために、叔父に連れられ薮川という山間地まで行ったことがあります。
 畜産農家は春に生まれた子牛を半年から十ヶ月育て、秋に競り市に出すのですが、「べご市」はまとまった現金収入の入る重大な催しです。
 このため、せり場の周囲には、数十にも及ぶ屋台が立ち並び、あたかもお祭りのような賑やかさでした。普段は人気の無い寒村ですが、この時ばかりは数千人の人が集まります。
 当時の屋台は、元締めが居て、店子を雇い入れ、各々に一箇所ずつを任せました。一人の元締めが十幾つもの屋台を出すのが普通でしたから、ごく当たり前のやり方です。
 この屋台には、物品を売るものもあれば、焼き蕎麦など食べ物を売るものもあり、また射的などゲーム性を帯びた遊戯もあったわけです。
 このうち、物品や食べ物については、仕入れ価格と売り上げを照合することで、利益がどれくらいあったかを知ることが出来ます。しかし、射的などの場合は、回数に応じた売り上げになるため、目安がありません。
 さらに「三十円で一回」のような遊戯の場合、その都度代金を授受したり、回数を計算したりするのは、なかなか厄介です。また、売り上げの総額が把握出来ないとなると、店子が売り上げをくすねても、元締めは認識出来ません。

 こういう不都合を解消する例として、江戸期には「木戸銭」がありました。
見世物小屋に入る際には、まず専用の貨幣型切符を買い、これを入り口に出すというやり方で料金を徴収しました。これが「木戸を通る際に払う銭」で「木戸銭」となります。
屋台を運営する際に、それと同じようなものがあれば簡便になります。
 すなわち、「木戸銭」の性質を帯びた「代用貨(トークン)」があれば、金銭の授受は非常に便利です。戦前の打刻印銭は、そういう性質のものだったと見なすと、辻褄が合って来ます。(ここはあくまで推測ですので、念のため。)
 その際、新たに代用貨を作るよりも、既にあるものを使う方が安上がりなのですが、寛永銭なら手頃です。ただし、寛永銭は多くの家庭の箪笥や蔵にありますので、それと区別する意味で、刻印を打った。
 「雑銭に混じって、ごく普通に現われる」ことを説明するには、これ以外に理由が見当たりません。
○現品の検証  
 寛永一文銭の打刻印銭は総て処分済みとなっており、手元にありませんので、「八戸馬市」「当百銭打米字刻印様銭」の事例を挙げて置きます。
※八戸馬市
  一枚は南部コインズの店頭の雑銭に混じっていた品で、もう一枚は私自身が雑銭から選りだしたものです。象形文字のような紋様とアスタリスク状の紋様になります。
 これらも、収集家は単純に「米字の偽物」と見なすことが多いのですが、出自自体が異なり、まったく別のものです。
※当百銭・水戸短足宝・米字刻印打  
 寛永銭だけでなく、当百銭に刻印を打ったものがあり、その典型的な事例は水戸短足宝に米字状、もしくはアスタリスク状の刻印が打たれています。
 昭和四十年代まであまり認識されておらず、大正以前の地元の銭譜や、水原『南部貨幣史』、小川青宝楼『天保銭図譜』には掲載されていません。
 大刻印と中刻印があり、大刻印銭については出自が分かっています。

米字様刻印が打たれた水戸短足宝
米字様刻印が打たれた水戸短足宝

 盛岡在住の収集家(戦前生まれ)の言によると、「短足宝米字刻印銭は、大正年間に元盛岡藩のお抱えだった飾り職人の家の道具箱の中から出てきたもので、全品がここから出た品」であるとのことです。また、氏は「古泉界で高値で取引されるようになったので、公には言えなくなった」とも言われました。
 ここに掲示した中刻印銭については、若干、出自が違うようで、掲示品は元南部古泉会長のK氏が「秋田二ツ井から出た雑銭より選りだした」と聞いています。そのことが謎となり、これまで手放さずにいましたが、これももちろん、藩政期のものではなく、大正から昭和戦前で実際に利用された刻印銭の仲間であろうと思われます。実際に、画像の通り、短足宝の「中刻印」と「八戸馬市」にはまったく同じ型の刻印がありますので、戦前には両方とも存在していたことになります。
 何故この銭種が選ばれたかという理由は、新渡戸仙岳『盛岡藩造貨二分金貨』の中で、簗川で作られた当百銭として、この銭拓が添付されていたからで、すなわち「地元で作られた貨幣」と見なされたから、ということでしょう。
 収集家はここでも「本物か偽物か」という二分法で思考する訳ですが、「藩政期のものではない」ことが確実である一方で、「収集家を騙すための贋作ではなかった」ことを指摘して置きます。
 戦前の打刻印銭は、それなりの理由があって作られたのです
 地元の収集家は短足宝米字刻印銭について「藩政期のものではない」ことを承知していますが、「贋作ではない」という意味で、一定の評価をしています。

※短足宝米字刻印打銭と八戸馬市には同じ型のものがある。
※短足宝米字刻印打銭と八戸馬市には同じ型のものがある。

 繰り返しますが、戦前にはお金を出してこれを買う人は一人もいなかったのです。
 この品が収集界で着目されるようになったのは、戦後、昭和四十年代以降の話です。

 最後に、今回提示した打刻(極)印銭の刻印部分を拡大して掲図して置きます。
 特徴の違いが明らかですので、分かりよいと思われます。
 (以下続伸。その3に続く)

各種刻(極)印の形状比較
各種刻(極)印の形状比較

主な刻(極)印の拡大図
主な刻(極)印の拡大図

◎岩手における打極印銭の実際について  (その1)      2018/10/24 (姫神旅人)

1. はじめに
 まず冒頭で苦言を呈しておきます。
 収集界で頻繁に起きることの典型的な事例は「あら川銀判」の顛末を見れば分かります。
 この銀判が東京の収集界に紹介されたのは、明治末から大正年間のことだと思われますが、すぐに議論が沸き上がりました。すなわち、「どうにも新しい」「藩政期のものではないのではないか」という議論です。このことが大真面目に取り扱われ、「あら川銀判の後鋳性」を指摘する報告まで書かれたのです。
 ところが、この銀判は瀬川安五郎が明治中期に「荒川銀山の産銀開始を記念して」関係者に配布したもので、そのことは地元に行けばすぐに分かることでした。
 実際に、配布時の箱入りの銀判が残されていますが、これには但し書きが添付してあり、「銀山開発の記念品である」由が記されています。
 地元の関係者に配布された銀判が中央に渡って行く際に、箱と但し書きが取り払われ、その代わりに、「南部地方で作られた銀判」として紹介されたのでしょう。
 南部藩では、藩が作成した盛岡八匁銀判の他に、未だ詳細の分からない金銀判がありますので、それを想像させる意図もあったかもしれません。これに収集家が飛び付き、過度な妄想を抱いた結果、騒動にまで発展したのです。
 ところが、各時点の何時でも、ひと度現地盛岡に照会すれば、簡単に答えを得られたのに、収集家はそうしませんでした。貨幣収集家は収集家同士しか付き合わず、手の上の貨幣ばかりを見て議論します。結局、憶測や邪推が紛れ込んでしまうことになります。
 あら川銀判で起きた愚は、手の上と、古銭会(または商)で取り交わされる情報を頼りにしていたせいですが、今でも状況はさして変わりません。今では古銭会にも出ず、「手の上の貨幣とネット記事」を頼りにする人が増えましたので、「あやふやさ」はさらに増す傾向にあります。
 そこで重要なのは、紙資料であれば「まずは原典をあたる」、地域性に関わるものであれば、「現地に行って調べる」ことであることを指摘しておきます。
2.岩手に於ける極印・刻印銭
 さて、盛岡・八戸両藩における極印銭の状況について概説します。
 最初に「極印銭」「刻印銭」という用語を定義しますが、「極印」は「極め印」で検印の意味を持ちます。要するに、当百銭の両側に打たれたり、小判の棟梁印等に打たれた場合は「極印銭」となります。一方、「刻印銭」の場合は、公的検印(極印)を含め、「何らかの刻印」が打たれた銭となります。すなわち、極印銭<刻印銭です。

新渡戸仙岳 『泉貨雑纂』
新渡戸仙岳 『泉貨雑纂』

新渡戸仙岳 『泉貨雑纂』 栗林銭座の一節
新渡戸仙岳 『泉貨雑纂』 栗林銭座の一節

(1)幕末・明治初年の銭座由来のもの
 盛岡藩において、刻印を打ち込んだ寛永銭が現れるのは、所謂、「米字極印銭」が発端となります。
 出典は、新渡戸仙岳が著した『岩手に於ける鋳銭』で、新渡戸は岩手県教育会の会頭(教育長)であった明治三十年頃から同著作を書き始めたようで、草稿(『泉貨雑纂』)が残されています。
 この時期、新渡戸は盛岡藩を中心に古文献の整理に着手しており、勢力的に活動していました。明治三十年の草稿と確定出来る著作は、『盛岡藩造貨二分金に関する資料』があり、これは「岩手県教育会」のセキレイが使用されていることで明らかです。

『盛岡藩造貨二分金に関する資料』
『盛岡藩造貨二分金に関する資料』

新渡戸仙岳 「盛岡藩造貨二分金貨」(『盛岡藩造貨二分金に関する資料』)
新渡戸仙岳 「盛岡藩造貨二分金貨」(『盛岡藩造貨二分金に関する資料』)

 『岩手に於ける鋳銭』は数度に渡り改稿されていますが、最終稿となるのが昭和九年稿となります(小笠原白雲居写本)。
 ちなみに、この自著により、小笠原白雲居の泉号は「白雲居」であると分かります。小笠原は、書画の雅号を「白雲」、古貨幣研究家の泉号を「白雲居」 として区別して用いていました。
 これによると、銭座に於いて寛永銭に打極したのは次の経緯によります。
 (以下引用)

新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』(昭和9年稿、小笠原白雲居写本)
新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』(昭和9年稿、小笠原白雲居写本)

新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』(昭和9年稿、小笠原白雲居写本)
新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』(昭和9年稿、小笠原白雲居写本)

 ○山内通用銭            (※橋野銭座)
 盛岡藩に於て藩設銭座開業中、座内に生する廃棄母銭に盛岡銅山銭用極印を打ち込みて座内通用と為し使用せしめたることは前にも述べたる所なるが、この座内通用銭は盛岡藩より江刺県へ銭座引継の際即ち明治二年秋冬の交に於て悉く引き上げしめたり。
 而して密銭を開始するにおよび復又(また)廃棄母銭に極めて大なる極印を打込みてやかて(本文ママ)壱枚廿四文に通用せしむることとなせり。

新渡戸仙岳『南部藩銭譜』(岩手県立図書館、新渡戸文庫収蔵)
新渡戸仙岳『南部藩銭譜』(岩手県立図書館、新渡戸文庫収蔵)

新渡戸仙岳『南部藩銭譜』(岩手県立図書館、新渡戸文庫収蔵)
新渡戸仙岳『南部藩銭譜』(岩手県立図書館、新渡戸文庫収蔵)

 而して之れに打込む極印は此の山内に使用せる鍛冶に作らしめたるが、その意匠は皆鍛冶の一存に任せ何にてもしるしさい有れば事足りるを以って適宜作るべき旨命じたるものなりと云うが、而してその極印の打込み方は第一回即ち藩設銭座開業当時用いしめたる極印廃棄母銭と同様にて別に異なるところあらず。
 此の山内通用銭は密鋳の末期に至り値上げして五十文に通用せしめたり。
 此の鍛冶職人の一存に任せて作らしめたる極印の形状は恰(あたか)も米字状をなせりしかば、後年之を見るものは皆菊地米治が藩設銭座開設以来此の山内に在り事務に□りたれは彼は己か名の一字をは極印にあらはさしめたるなりと云いし□とも実際米治に就きて之を質したるに彼の極印は急遽の場合鍛冶任せに何なりよき様に作られと命じたるに斯るものを作り出たるにて何の意味もなかりしものなりと云へり。
 かくの如く本座に於ては前後二回廃棄母銭を以て座内通用に充てたるか今は盛岡藩関係当時の座内通用銭の存在極めて少なきも密鋳時代の座内通用銭は尚追う往々世に発見する所なり。
余は二種を区別せんか為藩設開業当時盛岡銅山銭用極印を打ち込みたるものを橋野銭座前期座内通用銭と名つけ密銭当時用ひたるものを後期座内通用銭と呼べり。
 本座に於て鋳造したる母銭中、或は鋤穴(すあな)を生し、或は湯廻りの不十分なるもの、或はあまりに粗造にして母銭の用に堪へざるもの等は其の□□く又は粗造なる仕上げを施して普通通用青銅当四銭に加えて之を使用し□も銭形を為せるものは一文も廃棄せざりき(野村重吉の談)。

小笠原白雲居 署名 (『岩手に於ける鋳銭』奥付に記載)
小笠原白雲居 署名 (『岩手に於ける鋳銭』奥付に記載)

 又各種の絵銭中にて最も多く鋳造したるは無背大黒銭、寿比南山大黒銭、玉稲荷銭、富国強兵虎銭、三猿庚申銭、当四銭大法華題目銭、行書六字名号銭、当四銭大無背駒曳即ち黒駒及び外川目銭座の祝鋳大駒銭等にて是皆職人共の私鋳に係り銭座経営者の与り知る所にあらず(菊地米治談)。  (引用ここまで)
(注)句読点は今回読みやすくするために添付したもの。
 さて、新渡戸は鋳銭関係者からの聞き取りから、はっきりと大黒・虎打極印銭、および寛永母銭だ極印銭とも「橋野で打たれた」と書いているのに、水原『南部貨幣史』ではなぜか外川目銭座のものに替えてあります。
 これは、外川目の母銭に米字極印が打たれた品があったため、水原の判断でそのように替えたのだと考えられます。

栗林座大黒 打極印銭
栗林座大黒 打極印銭

 なぜ外川目銭座の母銭に米字極印を打ったものが存在するのかという理由は、①橋野銭座開設初期において、外川目や栗林の母銭を使用した、②橋野銭座の固有の母銭が少ないため、他の銭座の母銭にも打った、のいずれかではないかと考えられます。
 (なお、②は打極時期を限定するものではありません。)

 新渡戸は、橋野銭座では「当初は銅山銭の極印、後になって米字極印が使用された」としています。橋野銭座では背盛、マ頭通等を銅原母から作り直していることと重ね合わせると、現在のように外川目や栗林の母銭に米字極印を打った品が「相当量存在する」というのは辻褄が合わなくなります。
 銅山銭の製造は専ら栗林銭座と浄法寺山内銭座とされていますが、「栗林座の極印を端の銭座まで持って行き、そこで検印として利用した」というのは、なかなか考え難い事態です。
 通常は銅山銭の極印を打ったのは栗林銭座で、寛永母銭に米字極印を打ったのは橋野銭座とみなす方が自然だろうと思われます。
 この件については、銭座関係者の聞き取りの結果ですので、当事者が居ない限り解決出来ない問題です。 聴取による口伝資料には自ずから限界があるわけです。
 また、同著が公にされたのは、大正初期です(岩手日日新聞)。
 よって、打極印銭のうち幾らかは銭座とは別の出自によるものではないかと考えられます。
○現品の検証  
 さて、それでは現存する打極印銭のうち、銭座由来と見なして良い品はどれでしょうか。
 手掛かりになるのは、新渡戸の記述です。その中には極印が「米字状をなせり」と書かれていますが、実際に、大正から昭和初期に作成された銭譜に掲載されている米字極印銭を見ると、総てが「米」字と読める形状をしています。
 大正年間以降、地元で作成された銭譜に銭影と見比べ、この形状と一致するのであれば、銭座由来の極印銭に近いものだと言えます。

南部仰宝 銅母に打たれた米字極印(大正時代から地元にあるもの)
南部仰宝 銅母に打たれた米字極印(大正時代から地元にあるもの)

 『南部藩銭譜』には、一切の説明がありません。ただし、筆跡が新渡戸のもので、一部に南部史談会の資料と一致する拓本が示されていますので、新渡戸が作成したものと推定出来ます。
 これによると、米字極印の形状は同じ特徴を持ち、「米字」の書き方と同じになっています。
(以下続伸。その2に続く。)

新渡戸仙岳『南部藩銭譜』掲載拓
新渡戸仙岳『南部藩銭譜』掲載拓

米字の書き順(打ち込み)
米字の書き順(打ち込み)

◆盛岡八匁銀判                            2018/10/23開示 (暴々鶏) 

 水原正太郎『南部貨幣史』によると、大工町住木村筆太郎談として、次の記載がある。
 「慶応四年二月十六日。朝廷より盛岡藩が仙台藩の援軍として会津藩追討の大命を受け、家老楢山佐渡が上洛の途中より呼び戻され直ちに軍議にとりかかった。軍用金として小坂産銀を盛岡に運んで、山内通用の名目で御用達平野治平衛、小野善十郎等が藩命によって八匁銀判を製作した。出征兵士に八枚(八両)づつ路銀として藩庁から交付されたという」
 極印丸に融は融通、丸に改は山内通用の意味である。原形、および極印の製作者は月館八百八と推定する。(東洋貨幣協会誌「貨幣」第九号、大正八年九月掲載)

盛岡八匁銀判
盛岡八匁銀判

付記1)実際には、代官所や御用商人の一部に見本を配布したところで終わったようで、一般に流通したふしは見られない。秋田戦争に従軍した兵士は、当百差し銭を携帯したと伝えられている。
「領内通用」銭種なので、盛岡藩領外では通用しないし、量目が30.0グラムで、「一両に満たなかった」ことも流通しなかった原因である(一両は九匁二分)。


 実際には流通しなかったので、両替印などは、原則として打たれていないことになる。

 付記2)当品がまとまって発見されたケースは盛岡市内八幡町に限られる。製造場所とされる本町から遠くないが、月館八百八の工房があったことと関係するものと考えられる。

当時の銀材 
当時の銀材 

<特徴>
 特徴として、従来、「極印に隠し(シークレットマーク)がある」ことが言われていたが、これが無い正品もある。「地金を叩き伸ばした際に、台座の紋様(筋)が筋となって残っている」ことなどを併せて観察すると分かりよい。
 八匁銀判を製造する際に使用した銀材が残っているが、これにも台座の痕が残っている。

新渡戸仙岳 『南部藩銭譜』 掲載図
新渡戸仙岳 『南部藩銭譜』 掲載図

水原庄太郎 『南部貨幣史』 掲載図
水原庄太郎 『南部貨幣史』 掲載図

◆ 浄法寺「接郭背盛」鉄銭の簡単な見分け方       2018/08/31開示

 リポートが採用されるかどうか分かりませんが、そちらには書かなかった点が幾つかあります。
 まだ最初の発見品なので、確証は無いのですが、背波の最下部の谷に、深い窪みがあり、これが銅鉄双方に出るようです。鉄銭の場合、輪郭がスッキリとは出ないのですが、目を離して見ると、「穴」に見えます。
 また、右側の下から二番目の波上部には小さな突起があります。こちらは鮮明には出ませんので、二品目三品目と比較する必要がありそうです。


 リポートでは、「接郭(この場合は銭種)は濶縁銭の母銭を磨輪し、背の内輪を削ったもの」としてありますが、この他に、「銅銭を改造して母銭とした」、「鉄銭を研磨して母銭として使用した」の2つのケースが考えられます。
 いずれにせよ、発見例が乏しいので、現段階では確たることは言えないと思われます。
 これを契機に、背盛鉄銭を見直して戴き、類品の発見に繋がって行くことを希望します。

◆北奥史談(第一話) 浄法寺「接郭背盛」鉄銭の検証       2018/08/08開示

 本稿は昨日、別媒体に送付したものです。掲載の可否、または期日は分かりませんが、ひとまず概要のみ記します。
 数年前に、背盛鉄銭の中から、浄法寺接郭背盛と極めて近似した鉄銭を発見してあったのですが、これがどの程度確からしいかを検証したものです。
 こちらは浄法寺「接郭背盛」として分類される銅銭です。
 ・面刔輪×背濶縁の組み合わせである。
  ※「寛」上、「通」右に隙間がある。
 ・面側輪幅が標準銭(Ⅰ)より広く、濶縁(Ⅱ)より狭い。
 ・背側の内輪が楕円形(縦長)に歪んでいる。
 等の特徴があります。



 こちらが鉄銭。ひとまず「接郭手背盛鉄銭」としました。
 特徴は銅銭と同じですが、地金は山内座のものより粗雑です。

 標準銭、濶縁銭等と照合していくと、濶縁銭の背ズレタイプに起源があることが分かります。



 鉄銭は山も谷も黒いので、見た目の印象に左右されがちです。
 印象による予見を避けるためには、拓を作成して、情報を縮約したほうが見やすくなります。
 ひと目で判別が可能な特徴は、「通」字が「縦に小さい」こと。
 他の背盛各種とはまったく違います。なお、別媒体への掲載が終わった後で、こちらでも詳細を報告します。



「盛岡切手細札」 放出         2018/08/06開示

 8月の南部古泉研究会(花巻)に、掲図の品を出品することにしました。
 盛岡藩の希少札です。
 下値(発句)を8万円と付けていますが、もちろん、その辺では落札できません。
 過去に「面識のある方」についてはメール応札を受け付けています。
 やはり既に、入手の申し込みが来ています。



 こちらは盛岡藩内「黒木萬十郎出店」の五十文札となります。
 これも難穫品ですが、数年前に関西で7、8枚出ましたので、その時に入手してありました。
 下値は7万5千円ですが、相場が無く、どうなるか予想出来ません。
 銭種によっては、百万円の値がつく品です。

 裏がよく出ていませんが、状態を問わず、「有る無し」が重要となる水準の品です。 



新着記事 第9話 あまり見かけない絵銭            2018/07/26開示

(1)南部大型布泉
 中国銭にこのサイズの品が存在せず、南部地方独特の赤色の地金ですので、この地方の絵銭であることは間違いありません。古色が歴然で、かなり古い時代の品です。
 浄法寺絵銭に小型の布泉がありますが、地金では何ともいえません。領内の別の場所で作られた可能性の方が高いと思います。

南部大型 布泉
南部大型 布泉

 スキャナで撮影すると、露出過多になりがちですので、デジカメで撮影した画像を添付しておきます。
 この大きさの品は、まだ他の方の蔵品では見たことがありません。最高の味わいです。

南部大型 布泉 デジカメ撮影
南部大型 布泉 デジカメ撮影

(2)南部根付大黒写し
 絵銭の名品に「根付大黒」がありますが、当品はその品を南部地方で写したものです。
 元の品が希少ですので、存在数はさらに希少で、収集家蔵もしくはコイン市場では、同系統の品を見つける事が出来ませんでした。
 ひと目で南部絵銭であることがわかります。1枚ものだろうと見ています。

南部根付大黒写し
南部根付大黒写し

(3)竪槌大黒手竪槌大黒
 右の方が分かりよいと思いますが、こちらは「桃猿駒」です。
 古い絵銭譜を見ると、「竪槌大黒手」の「石猿駒」か「桃猿駒」と分類してあります。
 でも、その「竪槌大黒手」とは一体何でしょうか?旧譜には載っていません。
 左がその謎を解く品で、こちらは「竪槌大黒手」の「竪槌大黒」となります。実際に、大黒様が持つ槌は真っ直ぐ縦を向いています。
 

竪槌大黒手 竪槌大黒と桃猿駒
竪槌大黒手 竪槌大黒と桃猿駒

 竪槌大黒手は仙台領を起源とするとされ、仙台から北、江刺地方にいたるまでの範囲で散見されます。これが南部領に渡り、鋳写されたり、図案をモチーフに新たに作られたりするようになり、金質替わり、図案替わりの品が生じました。
 右掲図は、左が南部領で作られた赤い地金の品で、右は南部二戸地方のものと目される白銅銭です。
 南部写しは馬の尻尾(毛の本数)が異なると言われていましたが、実際には仙台と同じ型のものもあります。
 また、白銅銭は二戸周辺で見つかるものですが、この他に背盛母銭等も出ていますので、浄法寺でない銭座が存在したと目されます。物証が乏しく、これまでまったく詳細が分かっていません。
 この系統の希少品が存在するため、白銅の新作絵銭(第7話(3))が作られることになったのだろうと思います。
 桃猿駒については、情報が失われつつあるようで、ネットでは案外安価に取引されていたりします。 
 従来の半値以下のことが多いので、絵銭収集家にとっては、安価に入手できる大チャンスなのかもしれません。ま、古い収集家はネットは見ませんので、見ている側が価値を知らないだけです。

竪槌大黒手 桃猿駒
竪槌大黒手 桃猿駒

(4)見前大中
 20年近く前に、岩手県央の見前(みるまえ)で6枚ほど発見された「大中通宝」絵銭です。
 南部地方では、大中通宝は厭勝銭(まじない銭)の素材として好まれ、各所で散見されます。
 この品は、輪側の処理方法に特色があり、丸みの少ないガチガチの面に削られています。

見前で発見された大中通宝
見前で発見された大中通宝

 恐らく、板鑢で仕上げたものではないかと思いますが、詳細は分かりません。
 絵銭に時々この仕上げがありましたので、明治中期の絵銭座のものと見なしていたのですが、背盛にも同じような仕上げを施した品があります。
 15年位前にその背盛を見た時には、「これは絵銭作りだから、明治以降のもの」と見たのですが、その逆の可能性もあります。すなわち、幕末明治初年頃には存在しているかもしれないということです。
 実際に、この銭に浄法寺写しがあることが確認されています。

 ちなみに、南部コインズO氏は一発でこの品が古いつくりであることを見抜き、売値は非常に高額でした。当時は「高いよなあ」と思っていたのですが、今改めて見ると、「南部地方の大中通宝なら当たり前だ」と思うようになりました。
 「大中通宝」の厭勝銭としての吉語は「大いに中(あた)る」で、商売繁盛や博打の大当たりを祈願するものです。極めて縁起の良い品です。

新着記事 第8話 鉄当四寛永 密鋳異書           2018/07/25開示

 鉄銭は素材の性質のためか、表面にブツブツが多く生じます。このため、きれいに鋳出せていない品が多く、判読に苦労することもしばしばです。このため、収集家の多くは、鉄銭については、母銭を集めるだけで、通用銭はほんのサンプルだけを取り置く人が大多数です。
 みちのくの鉄銭と言えば、仙台藩の背千、盛岡藩の背盛、仰宝が代表的な存在ですが、そこから少し北に向かうと、密鋳銭の世界に突入します。こちらはさらに出来が悪く、詳細に見るのはしんどいです。まうほとんど字面が見えませんし、直接触ると手が荒れてしまいます。


 掲図の中央は、当四鉄銭2万枚を整理している時に、偶然発見しました。
 材質の違う品は、触った時に違和感がありますが、日に何千枚も触っているうちに、手で判別できるようになります。
 並べて見ると、確かに材質が違います。亜鉛は確実に混じっているし、他にも不純物があるようです。後で調べましたが、軽米大野鉄山製の掛け仏に近似したものがありました。出所もこの辺ですので、鉄自体はこの周辺の産物だろうと思います。
 面白いのは面文です。


 かろうじて、「寛永通宝」と見えるのですが、書体が如何にも突飛です。
 既存の貨幣を模したものではありません。
 どうやってこれを作ったのか。
 この地の絵銭の製作手法に、最初に木型(面背別々)を作り、判子のように鋳砂に押して、面背を合わせるというものがあります。
 おそらく、銭の密鋳を企画する段階で、試しにやってみたのだろうと思います。
 収集家の幾人かにお見せしたのですが、「出来の悪い鉄銭」にしか見えない様子でした。
 材質の違いが分からないようでは、「鉄銭自体に興味が無いだろう」と考え説明しませんでした。
 説明する時間が勿体無いです。
 そもそも興味が無い品については、「ごくつまらないもの」に見えるものです。目を瞑っている人には、何も見えません。

新着記事 第7話 げに贋作の種はつきまじ             2018/07/23開示

 表題は「(収集界に)げに盗人と贋作の種は尽きまじ」としたいところである。
 まず、コインは小さいものなので、欲しくなると掌の中に握り込んでしまう人がいます。各地の古銭会を回っていた時期がありますが、求めに応じてコレクションを見せると、面識の無い人にも回覧され、戻って来た時にはブックの数箇所が「抜けている」ということがありました。
 年に数回は同様のことが起きていますので、「コレクターとはこそ泥のことなり」も一面の真実だろうと思います。握り込まないまでも、他人のコレクションを見て「安く買い叩いてやろう」とする人は山ほどいます。
 それ以上に多いのは贋作です。参考品は色んな理由で作られるのですが、主に戦後になって作られたものは、基本的に売るための品ですので「参考品」ではなく「贋作」となります。
 以下、それらを見て行きます。
(1)平成以降の称浄法寺銭 
 昭和五十年代に、称浄法寺銭が紹介されてから、十年以上経過した頃、やはり鋳放しの「称浄法寺銭」が入札に出ました。
 昭和五十年代の品は、少なくとも4通りの「異なる製作」で作られていますが、その最後の手に似ています。しかし、これは後出来だろうと思います。
 銭種は、右掲示の「ナ文」や当百小字の写し(鋳放し)などです。
 理由は次の通り。最近になり状況が分かりました。

平成になってから出た称浄法寺銭
平成になってから出た称浄法寺銭

 ・浄法寺周辺の収集家が「浄法寺から出たものではない」と言っている。
  「ナ文」は「見たことがない」し、「小字鋳放し」は「50年代には無かった」。
 ・入札には、他県(多くは隣のM県)から出されている。
 そして何と言っても、
 ・笵(型)の作り方が異なる、 ことなどです。
 裏面のブツブツは型に水分が含まれている時に出来ますが、背文の改造母銭で作られた子が一発でここまで小さくなるところを見ると、砂笵ではなく石膏型や粘土型ではないかと思います(私見です)。

参考図 :昭和50年代の称浄法寺鋳放し銭の一例
参考図 :昭和50年代の称浄法寺鋳放し銭の一例

 そうなると、称浄法寺銭は「4通り」と書きましたが、実際は「4+1新手参考品」となります。
 これらの「手」は製造手法が著しくことなるため、各々、別の人が作っているとみなしてよいと思います。ひとつを見て、「称浄法寺銭」を語ることは出来ません。
(2)O島作
 参考品製作の名手であるO島氏が作ったもの。「鋳放し」の多くが、これです。
 入札等に時折出ますので、買った人も多いだろうと思います。残念ながら、この感じのは全部ダメです。ご愁傷さまでした。

O島作 (贋作 ) 
O島作 (贋作 ) 

O島作(贋作)。 O島作にしては珍しく出来が悪い。
O島作(贋作)。 O島作にしては珍しく出来が悪い。

 おそらく、最初に売った人は、「仰宝鋳放し母銭」として出したのでしょう。面文は南部仰宝で、銅銭なので母銭。形状を見る限り、鋳放しというわけです。「O島作」はもちろん、書きません。
 買った人は、「鋳放し」=「きっと珍しい」という思い込みや期待で入手します。その後は堂々と、地金が黒いので「浄法寺銭」みたいな尾ひれが付けられて、再び入札に出ることになるのです。
 右図は「浄法寺布泉銭」として入手した品ですが、O島作に極めてよく似ています。正の砂目を見ると、砂型で作っているようなので断定は避けますが、鋳放しでもあり、かなり疑わしい品です。
 鋳銭は短期間のうちに一気に行うのですが、母銭をすっかり揃えた上で通用銭の製作に取り掛かります。このため、仰宝など大量鋳銭を最後まで行った銭種では、中途で製作を止めた「母銭」は存在しようが無いのです。ま、通用銅銭という解釈なら、民鋳銭になるのですが、まったく無いわけでもありません。地金がO島作と少し違います。まだ最終判断は出ていません。

称浄法寺 布泉?
称浄法寺 布泉?

(3)新作白銅銭
 25年以上前の作品なので、「新作」を呼ぶのが適切かどうか分かりませんが、古貨幣なら百年以上前の話なので、ひとまずそう書いて置きます。この系統の品は、岩手で作られたもので、当初はきちんと「参考品」として紹介されました。

盛岡製の白銅銭(参考品)
盛岡製の白銅銭(参考品)

盛岡製の白銅銭(参考品 )
盛岡製の白銅銭(参考品 )

 銭種は主に絵銭額のセット売りであったようですが、仰宝など普通の貨幣や希少銭種なども作られた模様です。ただし、年数が経つと、バラ売りの対象となり、堂々と「白銅銭」として出品されるようになります。
 白銅銭は本銭にも存在していますが、かなり希少ですので、それも必然の成り行きです。
 この鑑定は簡単で、輪側の処理が極めて軽いことです。砂型でなく金属型を使用した時には、輪側にバリがほとんど出なくなりますが、そのような「技術的な効果」だと考えられます。
(4)真鍮または黄銅銭
 収集において最も恥ずべきは「偽物を本物と見誤ること」ではなく、「本物を偽物と見誤ること」です。要するに、鑑定の基準が「自分は見た経験が無い」から本物に見えないわけで、単なる経験不足を意味するのです。当品は上述白銅銭に「似ている」という理由で、参考品に入れていましたが、マイクロスコープで輪側を確認すると、きちんと横鑢が入っていました。
 当品は山内系の母銭かそこから派生した密鋳母と思われます。
 面文は宝時の珍柱が直立しており、水戸直系の型のようです。

黄銅または真鍮銭(山内系)
黄銅または真鍮銭(山内系)

 これも真鍮質で、雑銭の中にポツンと入っていました。ただし、輪側は縦鑢が入っているようでもあるし、何もしていないようにも見えます。別段、高く売れるわけでもないので、贋作かどうかは不明ですが、疑問品です。でも、何のために、これを作るのでしょうか。練習?

真鍮銭(不明)
真鍮銭(不明)

(5)合金製の貨幣
 当品は中国製です。一円銀貨の贋作と同じ材質で作成されていますが、要するに練習台と見込まれます。主にタングステンを使用したものか。現在、中国では贋作村が総動員で、日本の希少銭種の贋作を作っていますが、事前に普通の貨幣で練習したものでしょう。輪側に仕上げの痕が無く、判別は容易です。

中国製贋作
中国製贋作

 こちらは本物。 
 外見は合金製にそっくりですが、密鋳銭のようです。これまで「贋作」の扱いで紹介して来たのですが、最近になりホルダーを開いてみると、錫錆が付着していました。慌てて輪側を確認すると、きちんと横鑢が入っていたのです。軽量なので銀ではなく白銅と思いますが、薄く仕上がった密鋳銭のようです。確かに出所は明治以降一度も開けられていない銭箱の中からでした。

密鋳白銅銭 ※鈴錆が少しずつ浮いて来ている。
密鋳白銅銭 ※鈴錆が少しずつ浮いて来ている。

(6)銀銭
 「銀銭に本物は無い」と言われます。確かに、今も盛んに作られており、外見上もよく出来た品が多いです。銀は加工しやすいし、古色が容易につくからです。

銀製参考品
銀製参考品

 ところで、この品は、私が中国に注文して作らせた参考品です。
 中国人の知人が「中国では精巧な贋作を作ることが出来る」と言うので、技術の高さを確認するために、「あえて1枚だけ」発注してみたのです。
 中国製の特徴は金属型で作るということですが、伝統的に銭笵(固形型)を使用したためでしょう。
 今もその技術に拠っています。この場合、上下がぴったり合うので、輪側の処理がほとんど不要となるわけです。
 ここで、多くの人が「なるほど」と手を打つと思います。
 最大の関心は「輪側の処理」ですが、やはり、まったく加工した痕が見えません。これは予想したとおりでした。「これと同じものを銀で」とごく粗雑な通用銭を渡したのですが、字が潰れているのは、元の貨幣の出来が悪かったからです。
 想像を超えているのは銭径で、「これで」を渡した中国銭と銭径は0.02ミリしか違っていませんでした。
 この辺はどういう仕掛けか分かりませんが、今の技術では「鋳写し=銭径が小さくなる」という先入観は捨てた方がよろしいようです。銭径で言えることは、もはやほとんどありません。
 この品は、少し腐食させて、使用瑕を付ければ、本物で通る可能性が高いです。
 たぶんそういう意図から、「譲ってくれ」と言われるのですが、すべてお断りして来ました。
 「贋作として世に出る惧れがあるから」ではなく、原価そのものが20万掛かっているのです。金属型を作るのに十数万の費用がかかりますが、これがあると何百枚か作れます。枚数は原料代と作業工賃が増えるだけですので。500枚とか1千枚作れば、1枚単価が安くなります。
 でも、これは1枚だけですので、この新作銀絵銭の値段は20万円です。よって本物の銀鋳鐚銭と大差ありません。もちろん、この後、私がこの品を売りに出すことはありません。
 なお、実際の技術を確認していますので、中国製の贋作かどうかの見極めは一発で分かるようになりました。何せ、そのための勉強代が20万です。
 現在、中国製の新手の贋作がどしどし到着しています。銭種は皇朝銭から天保通宝の不知銭に至るまで、極めて多岐に渡っているようです。面背よりも先に、輪側をマイクロスコープで見るのが早道だろうと思います。
(7)銅山銭
 30年前の「K氏鋳」より、はるかに劣りますが、それなりによく出来ています。
 地元で参考品として5千円で買った時には、全体に赤い着色が施してあり、ドキッとしました。
 小様銭にそっくりです。
 ネットに出せば、結構、良い値段がつく筈ですので、表面の着け色を除去し、黒漆を塗って錆が付かないようにしました。こうすれば、「古そうに見せかける」ことが出来ず、ずっとこのままです。

参考品 盛岡銅山
参考品 盛岡銅山

 K氏鋳にせよ、贋作を作って売ろうと考えた例はほとんどありません。正用母銭を使って、コピーを作るのは、単純に好奇心からだった模様です。
 「いかに本物そっくりに作れるか」がテーマだったようで、晩年の作品はお見事でした。
 作った本人は探究心からでしょうが、それを見た人が「売れそうだ」と考えるのも、また自然な流れです。かくして、「誰かのコレクションでした」で出品されることになります。

 最近も様々作られ続けていますが、最近のは専ら売るためのようです。
 盛岡の2氏が偽米次極印を打ってからは、そういう贋作も増えています。
 ネットでは絵銭額用の粗雑な品が並んでいますが、そういう品とは違います。

新着記事 第6話 南部絵銭 隆平大銭    2018/07/18開示

1. 南部絵銭 隆平大銭
 当銭については、『収集』誌平成30年度新年号に報告済みです。
 書き直すのも面倒ですので、以下、自身の原稿を引用し、若干の加筆を行います。

◆ 隆平大銭                雑銭の会 暴々鶏
 年頭に当たり、謹んで新春のご祝詞を申し上げます。
 早速ですが、事務局担当者が病気療養中のため、本会は団体としての活動を休止することとなりました。
 二十七年に及び、各方面よりご支援を戴き、大変有難うございました。改めて御礼申し上げます。
 さて、掲図の品は「隆平大銭」となります。
 直径十センチ近くに及ぶ堂々たる品ですが、本来は絵銭として作られた品ではなく調度品の類であると考えられます。具体的には「土瓶敷き」で、卓が土瓶の熱で焼け焦げぬように下に敷くものです。
 この「土瓶敷き」には、藁や麻紐を編んだものや銅製のものがあります。
 このうち銅製は概ね古銭型を採ります。
 土瓶の下に敷くものであるため、福神の類の意匠は使わず、皇朝銭各種、永楽通宝、開元通宝、寛永通宝など縁起の良い字面の貨幣をモチーフとするようです。


 また、ほぼ同型のものに「鉄瓶敷き」がありますが、こちらは鉄製で、多く鼎型とし、熱伝導を下げる工夫がされています。
 これらは江戸期より存在し、古拓にも幾つか残されています。


新渡戸仙岳 『南部藩銭譜』 収録の隆平大銭
新渡戸仙岳 『南部藩銭譜』 収録の隆平大銭

 土瓶・鉄瓶敷きは現在も作られており、鉄瓶屋さんを訪れると様々な品が陳列されています。
 新作品は割と見かけますが、古鋳品を探すのは至難の業です。
 冒頭の品は、木型を基に作成されており、製作がかなり古いものです。地金と輪側の加工方法から見て、栗林絵銭との高い共通性が見られます。


 私見ではありますが、栗林銭座で使用された調度品ではないかと見ております。
 鋳浚い痕が鮮明に残っており、金肌に味があります。
◆資料
図① 隆平大銭 栗林座  縮小
図② 隆平大銭(新渡戸仙岳『南部藩銭譜』より借拓) 縮小

◆補足
 当初、栗林製なのか、浄法寺山内製なのか判断がつかないので、3年程度窓の桟に置き、直射日光を当てました。すると、表面色が徐々に赤色から茶褐色に変化しました。浄法寺銭であれば、黒く変わって行きますので、地金の点からも栗林製であると思います。
 なお、この手の敷物で古いものは滅多に見つからず、概ね昭和戦前以降の品になっております。
 調度品なので、古くなると捨てられるせいでしょう。絵銭であれば信仰の対象(お守り)なので、みだりに捨てられることはありません。
 これまで、色んなところで、この系統の品(大型文字絵銭)に話が及びましたが、「何でこんなバカでかいものを作ったんだか」と評する人がいました。「偽物としてもまるで意味が無い」というわけです。
 ところが、よく調べると、「なぜこうしたのか」という理由が様々あります。
 手の上の銭しか見ずに印象で判断するのは、まさに収集家の悪癖で、つくづく「愚かなのは収集家のほう」だと思った次第です。

 程なくこれもいずれかの媒体に出品しますが、今のところ現存はこの1つのみ。当百銭収集家にとっても、類似性を研究する意味で重要な品です。チャンスは1度きりです。

 第5話 称「江刺銭」の範囲について    2018/07/16開示

1.はじめに
 故川村庄太郎氏が「江刺銭」を古貨幣収集界に紹介してから、既に40年余が経過した。
 氏の功績も有り、収集界では称「江刺銭」が広く認識されてきたが、しかし、「どこからどこまでが江刺銭なのか」、または「何をもって江刺銭とするか」が今も曖昧であり、この分類は多く印象に頼るものとなっている。
 このため、「江刺銭」という認識を一旦解除し、製作を要素に分解し、観察を進めるものとした。
 この場合の基本的な仮説は、
 銭種(鋳銭行為全体)= (金属の配合)+(面背の仕上げ方)+(輪側の処理の仕方)+(誤差) 
 となる。
 既に予備調査(800枚超)により、地金、面背の仕上げ、輪側の処理方法について、各々3つのカテゴリーを得ている。
 この各要素の組み合わせで、製作の違いを認識し、A〜Dの独立したグループ(群)を抽出した。 
 A: 標準銭 : 1━イ━aが総て揃っている。
 B: 次鋳銭(仮): 1つ違いがあるもの。銭径の小さいものが多いので、「次鋳銭」と仮称する。
 C: 2つ程度相違があるもの。さらに面背の研ぎが強い。
 D: 近縁種: 風貌が似ており、何らかの関係がある。
 E: 母銭類: 推定である
 F: その他 

銭種の構成要素
銭種の構成要素

2. 製作面からみたグループ分け
A. 標準銭
 1—イ—aの組み合わせとなり、標準的な仕様であると考えられる。
 主要な銭種は、明和から文政まで概ね揃っているが、中心は明和期の当四銭を起源とするものであり、最も数が多い。



 明和21波の写しは、明和通用本銭の輪穿に鑢を入れ、そのまま鋳写したものである。
 赤褐色の銅色、斜め鑢。面背とも表面がブツブツで研磨処理が軽い(1-イ-a)。



 型に基づく細分類は、本稿の主旨に沿うものではないが、「正字写し破冠寛」は先年亡くなられたS氏の分類によるものであり、氏に敬意を表し掲示する。



 通用銭に素材を採ったので、基本的な存在比は本銭のそれに順ずる。俯永が最も多く、次が小字である。正字やその他の銭種はだいぶ少なくなる。文政写しや安政写しは探すのに苦労する。



 寛永銭譜では称江刺銭として、「仰宝」「背盛」が掲載されており、多くは密鋳銅銭より少し少ない程度の評価がされている。しかし、実際には選り出しは極めて困難である。



 初期段階において、銭座職人が関与しており、「この銭種は本来鉄銭」ということで、回避したものと見られる。背盛に至っては、多く浄法寺銭で風貌の似たものがこの分類に充てられており、製作が完全に合致する品は見つかっていなかった。

B. 次鋳銭
 金質、面背・輪側の仕上げについて、いずれか1つ相違があるもの。
 概ね地金、輪側の処理方法は同一であるが、面背に軽度の研ぎが加えられているものとなる。
 いずれも銭径が小さいので、「次鋳銭」と仮称した。
 孫写しとなり、通用銭の出来栄えが悪くなるため、見栄えをよくするために、面背をさっと研いだということではないか。



 「俯永写し 永下欠」の存在は、称江刺銭の解明に関し、大きな助けとなっている。明和期の本銭より発した銭種であるが、密鋳写しは称江刺銭が軸となっている。浄法寺銭や他の密鋳銭座では無く、総て称江刺銭から再展開したものと目される。要するに、若干の例外はあるだろうが、ほぼ江刺固有の銭種と見てよい。



 「文久写し」には鋳切れがあり、黒っぽいところから、「称浄法寺銭では?」と思う人がいるが、称浄法寺銭では背面がきれいに出ないことが多く、輪側の鑢目も異なっている。
 ただし、印象による判断を排除するために金質や面背、輪の仕上げ方法に分解して観察しているので、「たまたま技術が似ていた」ことも十二分にあり得る。その意味では、称江刺銭の周縁でも、また称浄法寺銭でもない可能性がある。



C. 近縁種
 称江刺銭の風貌に似ているが、面背の研ぎが強い点に加え、他に1つ以上の相違が見られるものである。



 いずれも薄肉小様で、面背をさらに強く研いでいることから称江刺銭の風貌から少し離れる。ただし、地金や輪側の処理方法に類似点が認められる。



D. 母銭類(推定)
 通用銭の存在状況から、称江刺銭および近縁種において使用された母銭を推定すると、最も多いのは一般通用銭を改造して母銭に仕立てたものである(改造母)。これは銭種が多種多様に分散していることで分かる。専用の母銭を企画した形跡も見られるが、称江刺銭を改造母に仕立てるケースもあるので、比較的状態の良いものを選び、機械的に手を加えて行ったものと考えられる。
1)通用銭改造母(参考)
 一般通用銭を利用した改造母は、そのものが称江刺銭で使用したものか、あるいは他の密鋳銭に関わるものかを特定出来ない。このため、ここで掲示する例は、あくまで参考である。 
 ◆銅銭用改造母と鉄銭用改造母の違い(参考)
 最終目的が銅銭か鉄銭かによって、改造母のつくりが若干異なっている。
 銅銭用は仕上げを考慮して、輪穿を整え、必要に応じ谷を平滑に浚っている。



 通用銭なのに、輪を研磨し、谷を鋳浚った品があることについて、長らくその理由が分からなかった。しかし、密鋳銭の研究が進むにつれて、ようやく全貌が分かって来た。
 必要最低限の状態を持つ母銭に仕立てようとした、ということである。



 さて、鉄銭の仕上げは、バリ落しと若干の砂磨きのみなので、輪にはあまり配慮する必要がない。
 ただし、出来銭に藁縄を通すことを想定して、穿には予め強めに刀を入れる。郭からはみ出るほど刀が入っているのは、この目的による。


2)母銭類
 地金から見て、称江刺銭の製作に関連したと思われる母銭類を示す。
 「俯永鋳写し母」は銅色赤褐色で、明和俯永を鋳写して、母銭を作ろうとしたものである。輪にも手が加えられており、輪幅が広くなっている。試験段階において製作したもので、通用銭は確認されていない。
 なお、明和期通用銭を元に作成したと考えられるが、銭径は同じである。輪幅を加工して広くし、子銭の縮小を抑えようとしたものであろう。
 当初の段階では、少数の規格で鋳銭が計画されたと見え、異なる手法が試されている。



 南部背盛の江刺大様母は、最近になり初めて発見された品である。銭容から見て、当品を作る台になったのは、橋野銭座の銅原母で、輪側が直角に立っていることでそれと分かる。称江刺銭として、地金と砂目が完全に一致する背盛銅銭は、極めて希少であるが、この品はさらに大型の母銭である。
 恐らく、初期において橋野銭座の職人が関わっており、試験的に作成したものであろう。元々、通用は鉄銭であり、銭座職人はそのことを熟知していたので、敢えて銭種として選ばなかったということか。


 右に掲示した2枚は、標準銭および次鋳銭の称江刺通用銭を母銭に改造したものである。
 まったく同じ手法で加工が施されているところをみると、これを加工した職人は同じ鋳銭座の者であり、裏返しに言えば、標準銭と次鋳銭を作ったのは同じ人たちであると推測出来る。
 なお、いずれも川村庄太郎氏の銭譜掲載原品である。



E. その他
 1)江刺絵銭
 
 絵銭およびその他の銭について記す。
 まず特記すべきは、「江刺絵銭」という場合と、「江刺銭の絵銭」という場合は、若干、意味が違うことである。「江刺絵銭」は、称江刺銭の提起以前から認識されており、「江刺地方で散見される独特の絵銭」のことを意味する。



 また「江刺銭の絵銭」は、「称江刺銭を作った銭座で作られた銭」のことを指し、川村氏は後者として扱っていた。「恵比寿大中」は 「江刺絵銭」として申し分なく、「称江刺銭の絵銭」と見なしても、制作上、極めて近似しており問題は無い。「恵比寿大黒」は、次鋳の配合と鑢を適用しており、事実上、次鋳と見なされる。「駒引き」も砂目が酷似しているが、ひとまず「江刺絵銭」で良いのではないか。
 「江刺絵銭」も「称江刺銭の絵銭」も、厳密な違いは無い。


2)その他 
 川村氏の江刺銭譜に掲載されている品であるが、検討が必要なものを「その他」とした。
 右、仙台銭2種については、 「川村銭譜現品であるが、おそらく本銭の出来の悪いもの。その証拠に輪側の鑢が異なる。従前はマイクロスコープが無かったので致し方ない」と書くつもりであった。



 しかし、実際にマイクロスコープで見てみると、鑢は縦横斜めに入っていた。
 若干、検討の余地があるかもしれないが、疑わしい品である。
 右図宝永通宝も、川村銭譜に掲載されている。
 輪側を確認すると、縦に筋が入っており、グラインダーを使用した時の線状痕に極めて近似している。おそらく見立て違いで、本銭は昭和期に作成された参考品ではないかと考えられる。
 ただし、「外見の印象で判断すると、鑑定を誤る」という意味では、良い事例である。面背の砂については、極めてよく似ているが、要するに「あまり丁寧に仕上げない」というだけの話である。


3.終わりに 若干の感想
 作業の結果、結論めいたストーリーは見えているが、それをこの後確定することはないため、書かないものとした。準備段階では、収集家諸士より密鋳銭を多数借り受け、分析に供させて頂いたことのみ、ここに記させて頂く。

 かなり前に東京で収集家が話をしているのを立ち聞きしたことがある。
 「江刺銭の仰宝はどれくらいの評価をすればいいのでしょうね?」
 「1万5千円くらいじゃないの」
 傍らで、思わずプッと吹き出した。
 恐らく、「密鋳銭にはまるで興味が無く」、「選り銭で存在数を確認したこともなく」、「いつもオークションや入札で入手している」わけである。
 頭の中では「仰宝の銅鋳銭が1万円くらいだから、たぶんそんなもん」と考えた。
 本当にバカな話だ。
 仰宝の称江刺銭を選り出すのに、いったい何万枚かかることか。
 背盛に至っては、1-イ-aの特徴を揃えた銅鋳銭など、これまで全く見つかっておらず、多く出来の悪い密鋳銭を「江刺背盛」にして来たのですよ。
 こういう場合は、もちろん、黙っているに限る。そのまま知らずにいて欲しい。
 「せいぜい倍付けにすれば容易に入手できる」と思うわけだが、しかし、現存数が決定的に少ないので、2枚目3枚目の入手は出来なかった。
 収集を止める段になり、ようやく本心を明かすことが出来た。
 もし、称江刺背盛できっちり1−イ-aの揃ったタイプを持っているのなら、大威張りで他人に見せることが出来る。 (了)

 ※今回掲示品を含め、近日中に何らかの媒体で、密鋳銭を一括処分する予定です。既に5百枚は売却済みで、残りは百数十枚前後となります。 

第4話 目寛・見寛座の銭種について        2018/07/13開示

1.八戸藩周辺の密鋳銭
 八戸藩領内の密鋳銭については、葛巻鷹ノ巣銭座が有名です。職人が1千人を超えていたと伝えられますが、あまり実態が分かっておらず、鋳銭場所(銭座)も最近まで特定されていませんでした。
 その外、軽米大野鉄山周辺でも、たたら炉による小規模の密鋳座が多数あったようですが、こちらでは個別の炉ごとに小規模の鋳銭が行われたようです。
 この八戸地方の作と目される有名な銭種に、寛永銭の目寛や見寛がありますが、収集界では、鹿角銭とされたり、葛巻銭とされたりと、様々な変遷を辿っています。
 ただし、八戸銭の母銭を観察すると、石巻銭に近似した仕上げ方法に拠っているものもあれば、そうでないものもあり、とりわけ、輪側の処理方法に違いが見受けられます。
 同一銭座で仕様の異なる母銭を使ったとは考え難いので、おそらく、製作を異にする銭種は別の銭座で作られていると考えたほうが無難です。
 また、鋳銭の場所と銭種を直接的に結びつけて考えることには無理があります。
 基本的に、石巻銭座に出稼ぎに出た職人がこの地方に戻り、鋳銭を始めたと考えて差し支えなく、銭種は背千類や一般通用銭を元にした銭種が中心だったと考えられます。
 そこであえて地名を冠せず、「目寛・見寛座(目寛・見寛を作った銭座)」として、観察を進めてみることにしました。
 この地方における鋳銭の中心は、「八戸藩の隠し炉」と呼ばれた葛巻鷹ノ巣(または鷹巣)銭座でした。こちらは職人は1千人以上、商店もあれば、女郎もいるような大銭座であったと伝えられています。
 まずはこの葛巻鷹ノ巣銭が何かということになります。
これについては、 1)葛巻周辺の鉄差銭は、ほぼ規格の揃った石巻銭と見まごう銭が多いこと、2)隣接する二戸で母銭が差しで発見されたことがあるが、総て石巻銭座の系統を汲む品であったこと、等から、おそらく鋳銭の中心は石巻銭から派生した銭種だろうと考えられます。

八戸地方の鋳銭
八戸地方の鋳銭

A 鷹ノ巣銭(推定)
 銭種は石巻背千をそのまま加工したものや、これを写し、新たに母銭としたもの等、製造工程が石巻銭に近似した銭種ではないかと考えられます。蒲鉾型に加工する輪側の仕上げ加工により推測するものですが、職人の交流があったようで、一部には仕様を異にするものもあり、厳密には特定できません。
 輪側は蒲鉾型で、普通の母銭と同じです。

八戸領の銭座中心銭種
八戸領の銭座中心銭種

B 舌千類
 こちらは、製造手法では上記とほとんど変わりがありません。ただし、仕上げ方法は、目寛見寛類と近似したものも多く、ひとまず「舌千類」と括って置きます。上記A、および下記Bの中間的な位置づけになります。
 変化もあるようで、舌千大字(様)の無背銭は、銭譜未掲載品です。

舌銭類
舌銭類

C 目寛見寛座
 この類の特徴は輪側の仕上げです。鑢(この場合は砥石)を直角に当てているので、輪側が切り立っています。また、中心銭種が一般通用銭を期限とするものであったり、密鋳背千類を流用したものであったりと、規格が不揃いです。
 既に存在が確認されている銭種は右図の通りですが、この他にも正式採用前のものが多々有ると思います。

目寛見寛座の銭種
目寛見寛座の銭種

2. 目寛見寛座の銭種
1)中心銭種(汎用母銭によるもの)
 この手法で作成された銭種のうち、最も多いのは目寛・見寛です。特徴が顕著なので、これまでの銭譜にも掲載されて来ました。しかし、突然、このような特徴を持つ品が生まれたわけではなく、概ね一般通用銭を加工することに端を発しています。
 前掲図の通り、目寛は座寛、見寛は明和四年銭、水泳は背元に似ていますが、実際に中間段階の母銭(鋳写し母)が発見されています。

目寛見寛座の中心銭種
目寛見寛座の中心銭種

2)鋳写し母銭類
 大量鋳銭の段階では、最終的に目寛見寛の規格が採用されたわけですが、中間段階のものが確認されています。
 「四年銭」の鋳写し母銭は、見寛に至る中途のものと考えられます。なるほど、見寛に直接繋がる書体になっています。
 同様に、手持ちの中にはありませんでしたが、「座寛」の鋳写し母もよく探せば見つかると思います。こちらは目寛と違いが少ないので、目寛と認識されているのでしょう。

目寛見寛座の鋳写し母銭
目寛見寛座の鋳写し母銭

 「背元」は、目寛見寛や舌千小様と微妙に書体が違うので気付きましたが、背に元の字が残っています。鋳写し母の位置づけなのに、出気が悪く、採用されなかった模様です。加刀してきれいに整えたものが採用され、「水永」に展開しました。
 また「縮字」は通用鉄銭で見つけやすい銭種ですが、改造母系の写しとともに、段階を踏んで作られてもいたようです。ただし砂抜けが悪く、母銭として質があまり良くなかったので、この系統の直接的な子(通用)を判別するのには手間がかかります。
 鋳写し母銭は、中間段階のものなので、通常の貨幣鋳造の流れでは、原母に相当します。すなわち、大量鋳銭のための汎用母銭を作るための工程で生まれたものなので、存在数は極めて希少です。
 舌千大様や水永の母銭がどれだけ少ないかは十分に認知されていると思いますが、この種はそれよりはるかに入手が困難です。

 二十数年に渡り東京で古銭会を開催したのは、この地では、密鋳銭や地方銭について、「まるで気付いていない」からですが、コイン店を回るだけで興味深い品を拾うことが出来ました。
 「密鋳背千なんかざらにある」という意見を聞くと、ことに嬉しく思ったものです。
 「どうかずっとそのままでいてくれよ」と思った次第です。
3)その他の銭種
 「表面色が紫褐色系で、輪側が立っているもの」を、「目寛見寛銭」または「目寛見寛座鋳銭」として認識すると、他にも幾つかの銭種を確認することが出来ます。
 やはり背千の中にも、この仕様のものが見受けられます。
 幾度も母銭を製作しているうちに、面背の文字に変化が生じていますが、母銭通用銭とも一定の銭群を構成していない限りは、無闇に型分類に進まないほうがよいでしょう。
 ただし、未開拓の分野なので、研究対象としてはやりがいのある分野だろうと思います。

その他の銭種
その他の銭種

 背千字の変化を追っていくと、沢山出て来ると思いますが、ここまで。
 目寛見寛類の見極めは比較的簡単で、地金の特徴と、やや厚いつくりであること。さらに最も顕著なのは、「輪側が直角に立っていること」です。
 この他、八戸領では、鋳写し母から汎用母へと推移する流れの他に、一般通用銭を改造して母銭となし、銅鉄銭を鋳造したものも見受けられます。小規模の小吹き密鋳銭というわけですが、これも多種多様な銭種に及んでいます。

その他
その他

目寛見寛類の輪側
目寛見寛類の輪側

 また銭種ではありませんが、見寛の背側に「山形(く)」極印が2箇所に打たれたものがあります。意図は分かっていませんが、昔から存在が認められたものです。

 最後に、「なぜこの仕様にしたのか」ということです。
 古貨幣を収集するのに、いきなり分類に入る人が大半ですが、「なぜ作ったのか」「どのように作ったのか」という観点を見落とすと、ただの珍銭探査に落ちてしまいます。もちろん、それもご自由です。

見寛母銭 背山形極印打
見寛母銭 背山形極印打

 しかし、珍銭自慢が目的なら、お金を使って、オークションで有名高額品を買えばよろしい。収集品を見た人は一様に、「この人はお金持ちなんだな」と思うことでしょう。しかし、この世界では「金にあかせて集めても、せいぜい25年」が通説で、殆どのコレクターが「竈を返して」、結局は購入時の3割以下で手放しています。
 (辛辣で恐縮ですが、もはや収集家ではなく、仲間意識もありません。気分を壊させたらスイマセンが、他所で悪口を言って解消してください。)

 さて、目寛見寛類は、貨幣の仕様としては、かなり突飛です。
 当時も「藤の実と呼ばれた」という話が残っていますが、これで果たして通用したのでしょうか。
 その答は、「この地方では、鉄銭は斤量が重要視された」ということに尽きます。
 鉄銭は小額貨幣なので、多くは差し銭のまま使用しました。差しは20枚25枚程度のものから、百文相当まで現存していますが、枚数を数えたりせず、「重量で換算した」ようです。
 このため、1枚1枚のつくりはそれほど重要ではなく、大きさが不揃い。しかし、小さいものは肉厚で、重さは保たれています。ま、紐で括ってしまえば、重さで均一に揃えられます。

 いずれ全品売却しますが、「委細問わず八戸銭なら何でも」と告知し、密鋳背千を含め、4、5百枚買い求めて入手した結果なので、安価な設定ではありません。そこは致し方ないところです。

第3話  延展踏潰銭(延展濶縁銭)

密鋳銭をどれほど真剣に収集しているかは、この2枚を見せて見解を尋ねると分かります。
「これはどういうものですか?」
最初の品は比較的簡単で、「踏潰※※の濶縁銭」。
では次のはどう違うの?
慣れた人は即座に、「これも踏潰。少なくとも作りが同じ」と答えます。
細分類にこだわる人は、旧譜に気を取られるあまり、「小字手」なのか「小字様」なのかと言い出すのですが、本座の「小字に起源を有する」のは疑いなく、「手」とか「様」はどうでもよいことです。
珍銭探査も度を越すと、話が好事家的に落ち、くだらなくなってしまいます。
密鋳銭で、点のある無し、くぼみのある無しなどの細かな違いで「分類」を始めたら、すぐに五百種どころか1千種に到達してしまいそうです。確固とした系統のみに着目すればそれでよし。
結論は「小字」に端を発したもので、踏潰や延展銭に関わった職人が作り、最終的に延展加工で仕上げられた品です。それ以上でもそれ以下でもなし。この手の小字濶縁はほとんど類例がありませんが、それも密鋳銭ならではの話です。
正確には、加工処理法が延展側中心ですので、延展濶縁銭の踏潰、および小字(または踏潰小字)となります。なお、背波の特長が踏み潰しのそれと同様に乱れていますので、「踏潰※※の濶縁」でも大差有りません。

踏潰 延展濶縁
踏潰 延展濶縁

小字  延展濶縁
小字  延展濶縁

その理由は「技術的に大差ない」から。
鋳銭を安定させるためには、一定の規格の母銭を作る必要がありますが、初期の加工方法がほとんど同じです。
中間段階の「輪幅を調整する」や、「文字を鮮明にするために削る」加工の有無やその程度の違いで違いが生じているのです。

延展銭と踏潰の関係
延展銭と踏潰の関係

延展銭と踏潰銭の母銭製造方法
延展銭と踏潰銭の母銭製造方法

面背を張り合わせた後で、ようやく原母が誕生しますが、さらに鋳浚いや削字を繰り返すことで、あの踏潰の一風独特の書体が生まれたわけです。あの書体で彫り母から始めたのなら、はるかに変化が乏しくなります。
※なお南部コインズ故O氏の見解をさらに発展させたものです。


 第2話 「文久様」ってどういうこと?

 もはや十五年以上前に、みちのく古銭大会に出ていた時のことです。
 この頃は開催する側が大変だろうと、盆回し入札の品物の引渡しなどのお手伝いに立っていました。
 こうすると、自身は展示品や出品物を見る暇がありません。
 2日目の終わり頃になり、ようやく人の数が減ってきた頃に、会場をひと回りしたのです。
 すると、若手骨董商のS君が、売れ残りの梱包をしていました。
 残っていたのは雑銭で、ビニール袋にパックしたものが、2千5百枚くらいありました。
 収集家は「選り出し」に専心していますので、中を検められない品については、あまり手を出しません。
 良い物が混じっていることを確かめ、それが安ければ「儲かる」。そんな貧乏人根性の人が多いですねえ。ま、これは、社会全体が皆同じ。
 ビニールパックを手に取ると、当四銭、一文銭が混じっています。
 なるほど、当四銭は「何も無い」ことが殆どなので、一緒くたでは手を出し難い。
 しかし、若手骨董商が「来てくれる」だけでも有り難いのだから、なるべく損をさせないようにしないと、足が遠のいてしまいます。その辺は、故南部コインズOさんの教えです。
 「残っちゃったの?じゃあ、俺が全部引き取ってあげる」
 ま、@30円だったか@35円だったか忘れましたが、大した金額ではありません。このS君は古銭の分野が本領ではなく、ついでの買い取り品ですので、収集家が散々調べた後の「見たカス」ではない。
 そこはネットの品とは全然経路が違います。

 最初の袋を開くと、密鋳銭が2枚入っていました。
 「おお。これは・・・」
 1つ目は「文久様」当四銭の俯永で、いわゆる未勘銭(素性がよく分からない品)です。
 地金が白っぽいこと、銭径が縮小していること、文字に変化が生じていること、輪側の加工に砥石を使用していることなどの特徴があります。
 滅多に市場に出ることは無いのですが、製作が独特ですので、それを覚えてしまえば、選り出せます。
 と言っても、当四銭では、背文銭の「島屋文」級の希少品です。
 2つ目は大字の写し。文政大字を鋳写ししたもので、かなりの小型。
 輪側にやはり粗砥ではなく、ごく普通の砥石を使っていますので、作り手は上記俯永と同じ人たちだろうと思います。金味が白くないので、「文久様」とは呼んで貰えないかもしれませんが、大字の写しであれば、密鋳銭としては大スタアです。収集界で過去に大字の南部写しが出たことがありますが、20万円の値が付きました。
◆文久様 俯永◆  
 書体は本座の俯永から発しているようですが、谷を鋳浚い、削字を加えており、書体に変化があります。
 特徴を再掲すると、
・銭径が縮小している。
・地金が白い
・輪側には目の細かい鑢痕があり、直角に立っている。おそらく普通の砥石を使った、等、普通の密鋳銭との違いがはっきりしています。

文久様 俯永
文久様 俯永

◆大字写し◆
 製法が上記俯永と同じで、違いは地金が少し赤く見えることです。少し焼けたせいだろうと思います。
 銭径が縮小しているので、肉眼では小字との区別がつきにくいのですが、画像で見るとはっきりした書体のくせが見えます。「宝」字には変化があります。

俯永と作り方が同じ大字
俯永と作り方が同じ大字

 時々、「文久様ってどういうものですか?」と訊かれます。
 先人が名付けた呼称なので、その方々を付き合いのあった収集家は知っていると思いますが、銭譜には記載がありません。
 分類名称から、文久銭の通用銭を想像し、それと似たものを探す人がおられますが、見ての通り、まったく似ていません。
 顕著な特徴のひとつに「輪側の角が直立している」ことがあげられますが、これは文久永宝の母銭によく似ています。また金質が白っぽいので、状態の良い品であれば、「外見が文久銭の母銭にそっくり」を手掛かりに探すのが分かり良いだろうと思います。
 なお文久様は奥州の密鋳銭の一種だと思いますが、これと輪側の処理方法が同じなのは、一文銭の目寛・見寛類の母銭だけです。こちらも輪側が立っており、粗砥ではなく、普通の砥石を使用しているのではないかと思います。
 関係は不明ですが、「当四銭では文久様、一文銭では目寛・見寛類のみ」は参考になると思います。

第1話 これぞ本当の文久様? 

 もはや5年以上前のこと。
 雑銭を十万枚以上処分する必要があり、順次、入札処理して売却しました。
 未選別品が多数混じっていましたので、寛永銭はすぐに売れました。
ところが、難物は文久銭で、コレクターの絶対数が少ないため、なかなか買い手が付きません。
 藁差しの未選品でも、枚単価35円→30円→25円と下げても手が上がらず、仕方なく滞貨として倉庫に仕舞うことにしました。結局、残ったのは3千枚くらい。
 私自身、文久銭にはまったく関心がなく、正直、「どうでもよい品」です。
 そこで少しぞんざいな扱いをしたら、藁が切れて、文久銭が床にバラバラと散らばってしまったのです。
 「あ〜あ。嫌になる」
 愚痴を言いつつ、ざっと拾い集めたのですが、途中で手が止まりました。
 完全に文久銭の差しですから、通常、中は総て「文久永宝」の筈なのですが、バラ銭の中に1枚、「寛永通宝」が混じっていたのです。
 金質、製作手法とも、どこをどう見ても文久銭です。鈴味が強く真っ黒で、薄手、横鑢。
 「こりゃいったい、どういうこと?」
 そこで、藁差しを解いて点検したのですが、他にもう1枚ありました。
 何箇所か古銭会を訪ね歩き、収集家に見せたのですが、どの人も首を捻るばかり。
 「こりゃ、まさしく文久銭だ。これが本当の『文久様』だね」
 よく知られた分類に『文久様』は存在していますが、そちらはあまり文久通用銭には似ていません。
 銭座で試験的に作成したものか、たまたま母銭の中に寛永母銭が紛れ込んだのかは分かりませんが、密鋳銭の風貌ではありません。
 錫を投入して、薄く仕立て、材料を節約するという発想は密鋳銭にはなく、その目的であれば母銭を削って薄くします。
 過去の銭譜に掲載はありませんが、おそらく類品は存在しているだろうと思います。
 たぶん、「密鋳銭」だとか、「出来の悪い安政」みたいな解釈をされてきたのでしょう。
 ま、安政銭とは材質がまったくい違います。
 同型の品が数十枚見つかれば、1手確立出来ます。おそらく、「文久期寛永通宝銭」になるのではないでしょうか。
 手分けをして収集品を点検する必要がありそうですね。これまで、案外、見過ごされてきたのではないかと思います。

文久銭仕様の寛永銭その1
文久銭仕様の寛永銭その1

文久銭仕様の寛永銭 その2
文久銭仕様の寛永銭 その2

いずれも、ペラペラの薄いつくりで、文久銭の差の中にあっても違和感がまったくありません。
※画像をクリックすると拡大表示されます。

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