北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



『九戸戦始末記 北斗英雄伝』

はじめに

 このホームページは、平成20年から23年5月4日までの3年間、「盛岡タイムス」紙上で月〜金曜に連載された「北斗英雄伝」(早坂昇龍筆)の内容をご紹介し、よりよく理解して頂くために作成したものです。過去の掲載話の流れは、これを読めば大筋がわかるようになっています。
 なお、新聞連載は「北斗英雄伝」で、小説としては「九戸戦始末記 北斗英雄伝」となっています。
 なるべく加筆を心掛けますが、諸般の事情により、原則として連載時のままでの取りまとめになりました。
 用語の使い方や校正もれ等、若干の不首尾が残っていますが、悪しからずご了承ください。
                                     早坂昇龍(はやさか・のぼる)

 備考) 本作は物語の構想のうちの第1部となっており、全体では3部作となる予定です。
◎「九戸戦始末記 北斗英雄伝」(長編): 九戸戦の始まりから城が燃え落ちるまで。
◎「天魔外伝 主殺し」(中編): 政実が三迫で斬首されるまで、五右衛門党により繰り広げられる奪還作戦の顛末。
◎「秀吉の首」(長編): 厨川五右衛門が石川五右衛門となり、養子五郎市(市之助)と共に、豊臣秀吉を追い詰める話。
 長い話ですので、執筆が終わるまで、あと3〜5年はかかる見込みです。 
 <※題字の背景図は、「燃えさかる炎」と「空を駆け巡る龍」をモチーフに作成したものです。>

※現在、第1巻〜第5巻の電子書籍&紙書籍(ブックウェイ書店)と紙書籍(蒼龍舎)を販売しております。⇒「九戸戦始末記 北斗英雄伝」(全5巻) 巻号別のあらすじ

北斗の英雄たちとは / 「北斗英雄伝」の名の由来

 第19章 北斗妙見の章 より
 「妙見」とは「物事を見通す優れた力」の意で、善悪や真理を見通す者ということである。妙見菩薩は、他の印度仏教を由来とする菩薩とは異なり、中国の星宿思想に基づき北極星を神格化したものである(北辰・北斗妙見)。九戸一族は、この妙見菩薩を守り神としていた。

 九戸戦では、九戸政実が予知した未来を基に、民や侍の命が無碍に損なわれることの無いように、計画的にものごとが運ばれた。「北斗の英雄」とは、九戸政実の予見を信じ、「悪の権化」たる羽柴秀吉に抗するために集まった勇者たちのことを意味する。

物語の始まり

二戸宮野城 本丸追手門跡
二戸宮野城 本丸追手門跡

 時は戦国末期。羽柴秀吉が天下統一を成し遂げようとしていた頃の話である。
 天正十八年、小田原の北条氏を屈服させた関白秀吉は、五万騎をもって陸奥に侵攻した。
 秀吉は、小田原攻めに参陣しなかった陸奥諸候を悉く改易とし、逆らう者は「なで切り」にすると宣言する。
 その後、この地に配属された上方侍の圧政により、一斉に一揆が起こるが、この鎮圧のため、各地で大規模な殺戮が繰り広げられた。
 南部信直を始めとする多くの陸奥諸候は秀吉にひれ伏し、奴隷のように、この天下人に盲従しようとした。

 翌天正十九年正月。ただ一人の北奥の国主が、秀吉やその手先となった南部信直の暴政に抗し立ち上がる。
 その国主の名は、九戸政実と言った。
 上方の支配に屈することを潔しとしない北奥の侍たちは、この九戸政実の下に続々と結集しようとしていた・・・。

天正末期の北奥

九戸戦前後の北奥
九戸戦前後の北奥

 天正期の北奥(陸奥の北方)では、南部氏、八戸氏、九戸氏、浄法寺氏らが、相互に深い親族関係を保ちつつも、各々自領を確保していた。しかし、天正18年、元は南部家家臣であった大浦為信が、秀吉より津軽三郡の領知安堵を受け、南部信直は津軽を失う。
 その一方で、南部信直は北郡、三戸郡、二戸郡、久慈郡(以上糠部郡)、閉伊郡、岩手郡、鹿角郡、志和郡を手中に収め、和賀郡、稗貫郡の領有を承認されようとしていた。
 南部領のうち、志和は、斯波氏を滅した南部家臣・中野修理(九戸政実の弟)が確保していた。
 和賀、稗貫は、信直が小田原参陣の折、「不参で良い」と伝えたため、小田原には行かなかった。しかし不参を理由に改易となり、この地では一揆が起こる。信直はこの一揆の平定を任ぜられる替わりに、和賀、稗貫を所領とすることを内諾された(正式な領知安堵は少し後)。このような経緯から、改易となった大名・家臣団のみならず北奥諸候の間には不満が充満していた。
図注)葛巻信祐(現葛巻町にあたる)の所領は、三戸九戸との繋がりが深いので、ひとまずここでは糠部郡に入れている。

天正19年3月の北奥勢力図

天正19年3月時点の諸候配置図
天正19年3月時点の諸候配置図

奥州人にとっての戦国(報道向け資料)

平成25年3月21日(報道向け)
「奥州人にとっての戦国」       早坂昇龍&蒼龍舎
1. 「九戸戦始末記 北斗英雄伝」について
 早坂昇龍筆「九戸戦始末記 北斗英雄伝」は、平成20年から23年5月までの3年間に渡り、「盛岡タイムス」紙上で連載された「北斗英雄伝」を、書籍として取りまとめたものです(全五巻)。
 著者の病気療養により一時中断していましたが、24年秋より作業を再開し、現在は第3巻まで刊行済みとなっております(構成は別紙の通り)。
原則として、連載時のままの内容で取りまとめ、本年夏までに全巻を刊行する予定です。
 
2. 九戸戦に関する数々の謎
 九戸戦には、直接的当事者とも言える南部や津軽・八戸に伝えられる伝承の他に数々の異説が存在します。例えば、代表的な謎には次のようなものがあります。

1) 宮野(九戸)城の開城の前夜、九戸政実が密かに浅野長吉(政)、蒲生氏郷の許を訪れた。
政実が開城の第一条件として二人に伝えたのは、「南部大膳(信直)の領知安堵」であった(浅野家家伝)。
 九戸政実にとって、南部信直は不倶戴天の敵です。しかし、政実が条件として申し出たのは、自分ではなく敵の身分保全でした。浅野長吉は、南部や九戸とは利害関係の無い立場ですので、どちらかに肩入れすることは考え難いところです。

2)九戸戦では、「開城の後、九戸勢は武士・領民とも、総て殺され、宮野城は焼かれた」とされています。ところが、出羽には九戸方を出自とする家系が一千五百から二千家族存在しており、また津軽でも大浦(津軽)為信が、九戸方武将の親族家来を多数引き取った(数は不詳)と伝えられます。さらに、開城の前夜には、「岩谷橋から逃れ出る者多数」という伝説もあります。「総て殺され」とは相容れない話です。

3)「九戸戦の頃、沼宮内城に上方軍五万騎が入城し、そこで軍議を開いた。これを出迎えたのは、南部利直(信直の息子)である」とされていますが、沼宮内城には別の言い伝えが残っています。こちらによると、「九戸戦の折、沼宮内城は九戸党に支配されていた」とあります。
 沼宮内城は数千人も入らぬような小さな山城です。わざわざこの小城に上方軍が駐留したのが事実なら、これは何故でしょうか。また、戦時に九戸党の支配下にあったことを、盛岡藩の作成した記録には一切書かれていません。
この他、天正十八年から十九年に関わる北奥の出来事には、数々の正反対の記録が伝えられています。さらに、当時、天下を手中に収めつつあった羽柴(豊臣)秀吉や、伊達政宗ら奥州全体に関する異説・異聞も存在しています。

4)羽柴秀吉には、両眼の眸(ひとみ)が二つずつあった(岩手地方の伝説)。
豊臣秀吉の手指が六本ずつあったことは、前田利家の書いた書状により事実として確認されていますが、「眸が二つずつ」は公には語られなかった口承伝説です。
このことは筆者も玉山地域の古老より聞いたことがあります。

これらの戦国異聞がもし事実であったなら、当時の人々はどのように動いていたのか。
また事実でないなら、どのような経緯を辿って、その口承伝説が形成されるに至ったか。
本作は小説の形を取っていますが、その実は戦国の終焉ともいえる「九戸の戦」に散見される異説を題材とし、その謎解き試みるものです。

3. 秀吉の天下統一
戦国史で多く語られてきたのは、「天正十八年の小田原攻めをもって、羽柴秀吉の天下統一がほぼ完成した」ということでした。
 しかし、それはあくまで「ほぼ」であって、「総て」ではありません。
 小田原戦の後、秀吉は即座に「小田原攻めに参陣したか、しなかったか」という判断基準をもって、奥州の地侍を仕分けします。これが「奥州仕置き」で、沢山の地侍が領地を没収されることになりました。当然、反抗する者が沢山出ますが、秀吉は仕置き令に従わなかった者を総て「なで切り」にせよと家臣に命じます。これを直接伝えるため、上方軍は奥州各地に遠征しました。
 この年の秋冬になり、奥州各地では一揆が発生します。葛西・大崎、和賀・稗貫などでは、秀吉に派遣された上方侍が追放され、かつての地侍や領民が旧領を支配しました。
 当時、出羽米沢を本拠としていた伊達政宗は、大崎一揆を陰で煽動していたようですが、秀吉にこれを疑われ直接詰問されます。政宗はその場を何とか言い逃れますが、しばらく後に、その大崎への領地替えを命じられます。一揆勢の支配する地を与えられるということは、それを平定しろという意味ですので、伊達政宗はその地を手に入れ、首謀者の口を封じるために、一揆勢を皆殺しにするのです。
 この時点で、東日本を地盤とした秀吉の配下は、浅野長吉、蒲生氏郷であり、徳川家康でした。
 天正十九年には、一揆勢討伐のため、第二次奥州仕置きが発令され、蒲生氏郷を主力とする討伐(仕置き)軍が編成されました。
 5〜6万騎で構成された仕置き軍は、奥州各地の一揆勢の拠点を攻略し、抵抗勢力を皆殺しにしました。小田原以後の「太閤記」は、単なる殺戮の記録で、語り伝える口(者)のない陰の歴史となっています。

4. 奥州人にとっての戦国
 奥州人にとっての戦国時代は、羽柴秀吉による容赦のない収奪と殺戮で終わります。その最後を締め括るのは、九戸の戦いとなります。
 圧倒的に不利な形勢にありまがら、九戸政実はなぜ戦ったのか。
 また、政実が籠城戦を終える条件として、敵の保護を求めたのはなぜなのか。
 筆者はそこに、「不屈」と「再生」に向けての志を見ました。
 力を背景に、民の生死までも、己の意のままに支配しようという秀吉の考え方に、九戸政実は絶対に屈しません。
 ひと度戦えば、上方軍に敗れるのは必至で、実際に奥州各地で多くの民が殺されていました。このため、上方に対し「盲目的に隷従することはない」という意思を示しつつも、しかし、民を殺されずに済むような道を探した結論が、「南部大膳の領知安堵」だったということです。
 上方の奴隷にはならないことと、敵対者として殺されずに、多くの民を残すこと。
九戸の戦いは、奥州を再生させようとした試みだったと見なせば、異聞異説の根源を理解することが出来るのです。                          (平成25年3月17日記)

度量衡と時間の標記について

 戦国末期においては、度量衡は地域的なものであり統一基準が無く、また江戸期の基準とも異なっている。例えば、天正末年時点の「1里」は600㍍程度となる。本作中では、読者による換算を不要とすべく、主に江戸尺で表現している。
 距離: 1里: 36丁: 約3.9㌔㍍
    1間: 6尺: 約1.8㍍、1尺: 10寸: 約30㌢
 面積: 1町: 10反: 約0.99平方㌔㍍
 体積: 1石: 10斗: 約180㍑ 
 ※「石」は太閤検地後の単位なので、一部に「貫」を併用する。体積としての「貫」は、1石: 約2貫にあたる。
 質量: 1貫:100両:1,000匁: 約3.75㌔㌘
 時間: 1時(とき): 4刻(こく): 約2時間。 
 ※「半刻」は15分、「四半刻」はおよそ7分程度となる。(「小半刻」では伝わり難い為、この表記とした。)
 時刻は、十二支で示す。

蒼龍舎のご案内

 これまで、早坂昇龍後援会の略称について、「五右衛門党」、「昇龍会」を併用してきましたが、平成24年2月より、「蒼龍舎」に統一します。
 電子書籍等の出版に際しては、この「蒼龍舎」を窓口として行うものとします。

 また、出版物のご案内や時事コメントについては、これまで「日刊早坂ノボル新聞」を利用してきましたが、いずれ、「蒼龍舎ML(メーリングリスト)」に移行する予定です。
 蒼龍舎MLでは、ホームページを一般に公開して、情報を提供するとともに、登録された皆様に、「出版のご案内」のメールを配信します。
 発行数限定の書籍(紙媒体)につきましては、この蒼龍舎で先行予約を受け付けますので、こちらをご利用下さい。

.