獄門峠(2)襲われた村(その1) 2025/06/08公開 NEW!!
(二)襲われた村
その翌日の申の刻。もはや夕刻である。
赤虎は湯の谷におり、渓流の傍に湧き出る温泉に浸かっていた。
すると、川岸に二人の男がやって来た。
一人は四十歳前後、もう一人は五十を幾らか超えていそうな年恰好である。
二人は赤虎を見ると、小さく頭を下げ、少し離れた場所に鋤で穴を掘り、湯溜りを作り始めた。
川原には湯が湧き出ているが、そのままでは熱いので、穴に川の水を引き入れ水温を調節するわけである。
湯溜りが出来上がると、その穴に十分に湯水が溜まるまで待ち、二人は褌一丁になった。
これが赤虎の背後二間の場所である。
二人は赤虎の事は知らぬ筈である。しかし、傷だらけの大男が間近にいれば、関わり合いになるのは避けたいと思う筈だ。
赤虎は素知らぬ振りをしていたが、話の内容から二人がいずれも近在の者であることが知れて来た。
「おい、聞いたか」
「何の話だ」
「昨日、四郎左衛門様が西淵村に向かったきり、まだ帰って来ぬらしいぞ」
「誰が申していたのだ?」
「惣吉が捕り手として従ったらしいが、戻って来ぬので家の者が案じているらしい」
「惣吉が?」
「ほれ。惣吉の家は犬を何匹も飼っておろう。そのせいで駆り出されたのだ」
「何で犬が要るのだ?」
「犬は猪を追う時に使うくらいで、賊を捕えるのには不要だろうにな」
これを聞き、赤虎が腹の内で頷く。
(なるほど。大湯四郎左衛門は、道中で犬を徴発して彼の地に向かったのだな。)
赤虎は後ろを振り返り、二人に確かめることにした。
「ちと尋ねるが、その惣吉が飼っていた犬は如何ほどだ。大湯四郎左衛門は何匹の犬を調達して行ったのだ」
唐突に話し掛けられ、年嵩(かさ)の男が少し当惑した表情を見せる。
「惣吉の家には七八頭の犬がおりました。日頃、猪狩りに使っているのは、そのうち三頭にござります」
「三頭か。幾らかの足しにはなろうが、とても足りぬ。相手は人だけではない。賊は猿を操っているが、その猿どもは数百匹を超える頭数らしいではないか。悪さを覚えた猿数百匹が相手なら、犬三頭ではとても歯が立たぬ」
「捕り物は猿が相手でしたか。では捕り物は西淵村ではのう、その先の野猿峠か。しかし、それなら、猿は百匹や二百匹ではござりませぬぞ。あそこには桁がひとつ違うほどの猿がおりますでな」
この時、若い方の男が急に声を上げた。
「おい弥平。東の空を見て見ろ」
超えに従い、年嵩の男と共に、赤虎もその方角を向いた。
すると、東の空と山の境目に、赤い光がちらほら見えていた。
「あれは・・・。火だな。火事が起きているのだ」
「弥平。あれはたった今話をしていた西淵村の方角ではないのか」
「どうやらそのようだ。上の道に出て、よく見よう」
二人は慌てて湯から上がり、着物を着始める。着終わると二人は、川原を上り、道の方に歩き出した。
赤虎も二人の後ろから、ゆっくりと土手を上った。
川原から半丁上がった土手の上には、鹿角の東西を結ぶ道がある。
その道の上に立ってみると、確かに東の空には赤い炎が上がっていた。
夕暮れ時でもあり判然とはせぬが、おそらく黒煙がもうもうと立ち上っている筈である。
「なるほど。山間(やまあい)の村から出た火が、今は山際に燃え移ろうとしているのだな」
この火事のことは、周囲が皆気づいたらしく、道に十数人の人が出て、同じ方向を見ていた。
火元の近くに知り合いを持つ者たちは、火の方向に向かって走り出している。
赤虎の見るところ、事態は極めて切迫していた。
(いかんな。周囲に燃え広がってしまうかもしれぬ。早く火を消さねば。)
赤虎は己の鳩尾(みぞおち)がぎゅっと冷たくなるのを覚えた。
赤虎には火にまつわる嫌な記憶がある。
赤虎が子どもの頃、戦が起き、赤虎の住む村が野盗に襲われた。野盗たちは日頃は隣国の主に仕えるごく普通の侍であったが、不作のため食うに困り、他領を襲ったのだ。
その時、赤虎は五歳だった。弟が二人いたが、それぞれ三歳と一歳である。
野盗は、村に略奪出来る物が何もないと知ると、家々に火を点けて回った。
赤虎の父親は子どもたち三人を先に逃がし、自らは火を消そうと村に留まったのだが、それが災いし、野盗に殺されてしまった。
母親の方は子どもたちを助けようと、火の中に飛び込んだ。首尾よく子どもたちを逃がす事は出来たのだが、しかし自らは倒れた柱の下敷きとなり、焼死してしまったのだ。
その時から、もはや幾十年もの月日が経った。
しかし、今になっても、時々、赤虎の耳にはその時の母親の叫びが聞こえて来る。
「虎一!弟たちを連れて、先に逃れよ!」
己の傍らに立ち、母を求めて泣き叫ぶ弟の声が響く。
「母ちゃん!母ちゃん!」
その時、落ちて来た梁の下敷きになった母親は、まだ赤子の末弟を虎一に託し、重ねて「逃げよ」と命じた。
それから母親は、自らが死に瀕しているのにも拘わらず、冷徹な口調で息子を諭した。
「虎一。母親は息子の行く末を他の何よりも案じるものです。だから、今私はお前たちを生かすことが出来さえすれば幸せなのだよ。私はこの先お前たちが育つのを直に見ることは出来ないけれど、必ず遠くから見守っています。虎一。これからはお前が母の代わりとなり、弟二人を守り育てておくれ」
「母ちゃん・・・」
「早く行きなさ」
母親は最後の言葉を言い切ることは出来なかった。家の柱が倒れ、崩れた屋根に押し潰されてしまったのだ。
赤虎の苦難が始まったのは、まさにその時からである。
親兄弟が健在であっても、戦乱の世を生き抜くのは難しい。赤虎は自らもまだ子どもであるのにも拘わらず、さらに幼い弟二人を抱えて生きて行かねばならなくなった。
このため、赤虎は兄弟三人が生き延びるためなら、どんな事でもやった。
食うために盗みをし、長じてからは、富を貪る商人や侍たちを襲うようになったのだ。
「盗賊の赤虎」が生まれたのは、赤虎が五歳の頃のその火事が契機であった。
自らの過去の記憶が赤虎を突き動かした。
(今、この場を黙って見過ごす訳には行かぬな。いい加減に、この辺でこれまで長年俺が背負って来た心の重荷を、今こそ下ろさねば・・・。)
赤虎は村人の方に向き直った。
「おい。男は皆、鉞や鉈を持って来い。皆であの山に向かうぞ。周りの灌木を刈り、延焼を防ぐのだ!村の者にも声を掛けよ!」
赤虎はそう叫ぶと、すぐに道を駆けだした。
そこから半丁ほど駆けたところに、小さな集落があった。
赤虎はすぐに道端の一軒に寄った。
その家の横には、薪を割るための斧が置いてあった。
「おおい。この斧を借りるぞ。後で返す!」
赤虎は家人の返事を待たず、斧を掴んで再び走り出す。
道には、この村の男衆が十数人出て、同じ方向を目指して走っていた。
すると、その村人や赤虎を追い越して、前を走る影があった。
赤虎がその人影の方を見ると、その影は子どもだった。
赤虎はその背中に見覚えがある。
「あれは・・・。厳徹」
赤虎は前を進む男児に声を掛ける。
「おい、厳徹!お前は厳徹ではないのか」
その声に男児が振り返る。
「うん?あ、盗人の赤虎か」
男児は足を止めずに、顔だけを横に向けた。
赤虎は走る速度を上げ、厳徹の隣に肩を並べた。
「厳徹。ぬしのような餓鬼が火元に走っても、火消しの役には立つまい。とっとと家に帰れ」
厳徹は走りながら赤虎に言い返す。
「馬鹿を言うな。盗人の赤虎。あそこには庄三がおる。庄三は俺の友だちだ。あいつを黙って見捨てられるか。俺は庄三を救いに行くのだ」
「ひと度煙に捲かれると、わずかひと息ふた息で息が止まり、動けなくなるぞ」
「俺はそんな柔(やわ)ではない!」
そう言うと、厳徹は赤虎を置き去りにして、ぐんぐんと道の先に駆けて行った。
赤虎は、そのあまりの速さに舌を巻いた。
「あの餓鬼。見た所せいぜい七八歳の筈だが。それにしては、やたら脚が速いぞ」
火元の村はかなり遠い。赤虎はここで少し歩調を緩めた。
ようやく火元に近づくと、そこで燃え盛っていたのは、山際の家々であった。
既に近隣の者大勢が家の後ろの斜面に入り、灌木や雑木を倒し終わっていた。木を倒すのは、火が回りに移るのを防ぎ、山火事に至らぬようにするためである。
赤虎が最も火勢の強い家の前に行くと、そこに一人の男が立ち、火消しを指揮していた。
背後に近寄る赤虎の気配に、男が振り返る。
男は大湯四郎左衛門であった。
「盗賊の赤虎。ぬしも来たのか」
その四郎左衛門に、赤虎が顎をしゃくる。
「随分と燃えたものだな。こんな山奥の村なのに、何故火が出たのだ」
赤虎はそう問い掛けつつ、四郎左衛門の隣に並び立った。
「なあに。火を放ったのはこのわしだ」
「何だと・・・」
「昨夜、わしらはこの村に寄り、夜を越した後、今日の昼に野猿峠を攻める心積もりだったのだ。それが、こともあろうに、昨晩の内に三次の一味がこの村を襲って来たのだ」
「ふん。偶々(たまたま)だろうが、そりゃあ、まこと悪しき巡り合わせだったな」
ここで四郎左衛門は「ふん」と咳払いをした。
「十分に戦支度をして参ったつもりだったが、此度はとことん敗れた」
赤虎はすぐにその言葉の裏を察した。
大湯は武名で名高い一族である。それがあっさり破れるとは、何かしら事情がある。
「猿どもか・・・」
四郎左衛門が頷く。
「百や二百ではないぞ。あれでは七八百か、あるいは一千を超える頭数がおったかもしれん。その上・・・」
「何だと申すのだ?」
「その猿の群れの中心には大猩々(おおしょうじょう)がおる」
「大猩々?」
「あんな大猿はこの国の獣ではない。身の丈は八尺に達していような。あれは明国か、天竺か、どこか異国から連れて来られた獣だ」
「そんな獣が本当におるのか」
「この眼で見るまでは、とても真(まこと)とは思えなんだ。だが真のことだ。全身が銀色の毛に覆われており、尋常ならぬ動きの素早さに散り散りに蹴散らされた。まさに悪鬼のようであった」
「この奥州には、山中に棲む大猿の言い伝えがある。山に大猿が棲んでいて、村人たちに災いを為す。そこで幾つかの村では、年ごとに娘を一人生贄に捧げている。俺はそんな噂を聞いた事があるな。その大猿はその噂と関わりがあるのだろうか」
「その話とかかわりがあることは疑いない。恐らくは総てが真の話だったのだ。あの大猿は、きっとその大猿の血族に違いない。その猿たちに攻められ、我らは危うく全滅するところであったが、家に火を投じることで難を逃れることが出来たのだ。畜生は炎を怖れるからな」
「ううむ」
赤虎は両腕を組み、思わず唸り声を上げた。
四郎左衛門は赤虎には顔を向けぬまま、話を先に進める。
「猿の三次は、おそらくその大猩々とその仲間の猿たちに餌を与え、手懐(てなず)けたのだろう。猿たちの背後では、確かに人が幾人も動いていた」