北奥三国物語 

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



 『獄門峠 』

獄門峠 第4章 再会

獄門峠(4)再会 2025/06/16公開 NEW!!
 崖の外に放り捨てられ、赤虎は長い間空中を落ちて行った。
 崖の途中には、幾本もの松の木が枝を張り出している。赤虎はそんな松の枝に、幾度も体を打ちつけながら八間ほど下に落ち、ようやく大枝のひとつで止まった。
 肋骨数本を折ったようで、息を吸うことも吐くことも出来ない。
 自らが掴まっている松の枝から身を起こし、赤虎は下を覗き見た。月明かりなので、あまり先は見えぬが、底はかなり深そうである。
 次に崖の上を見ると、こちらも十間近くの高さがある。
 「今の俺の体では、上に登るのは難しそうだ。なら降りるしかないな」
 そう心に決め、岩壁に生えた木々を伝って下に降りることにした。
 赤虎が掴まっていたのは太い松の枝であったが、その木の下は細い灌木ばかりだった。
 その灌木の根元を掴み、ゆっくりと足を下に伸ばす。それを繰り返し、赤虎は五間ほど下に降りた。
下を見ると、依然として底の見えぬ漆黒の闇である。
 (谷底まであとどれだけの高さがあるのか。)
 そう考え、下を覗きこんだ瞬間に手が滑り、赤虎はもう一度、崖を転がり落ちた。
 赤虎はごろごろと急斜面を転がり落ち、岩の隙間に挟まるようにして漸く止まった。
 運が良かったことに、赤虎が転がったのは、わずかに傾斜のある斜面だった。
さらに落ちた先も岩場ではなく、岩の隙間の草叢だった。
 どれか一つの状況が違っていれば、岩に激突して命を失っていた筈であるが、赤虎は辛うじて最悪の事態は避けられた。
 しかしもちろん、赤虎の全身は傷だらけである。
 赤虎はやっとのことで草叢から這い出して、外に出て見た。
すると、そこは谷底にある渓流の土手の上であった。そこには猟師が獲物を探して歩いた跡か、あるいは、この地の者が山仕事に行くための細道が伸びていた。
「崖の下にも道があったのか」
 赤虎は己が置かれた状況を把握して、少しく安堵した。
 仰向けになり夜空を見上げると、月が煌々と周囲を照らし出していた。その月を見ているうちに、赤虎の眼の前が次第に暗くなって来る。
幾分ほっとしたせいなのか、赤虎は次第に気が遠くなりつつあった。
 この時、赤虎は誰かが近寄って来る気配を感じた。しかし、赤虎は身動きひとつ出来ぬ状態になっていた。
 その何者かは赤虎の間近に来ると、上から顔を覗き込んだ。
 赤虎はその顔に見覚えがあった。
「あ。お前はお里・・・。何故にこんなところに」
 赤虎の顔を覗き込んでいたのは、沖屋の下働きのお里であった。
 それに気付いた瞬間、赤虎の意識は暗闇に落ちて行った。

 赤虎が眼醒めると、お天道さまが空の頂に見えた。すなわち、今は凡(おおよ)そ昼過ぎである。
 赤虎は筵の上に仰向けに寝ていた。体全体が暖かくなっているところをみると、野猿峠の、あの谷底にいる訳ではないらしい。
 筵の下にはじゃりじゃりした感触があり、どうやら砂の上にいるようだ。
 顔を横に向けると、山で働く者のための仮住まいの小屋が見えていた。赤虎がいたのも、そんな小谷野一つだった。
 「眼が醒めましたか。虎一さま」
 声がした方に赤虎が顔を向けると、すぐ傍にお里がいた。小袖一枚のお里は、赤虎のすぐ傍らで、地面に両膝を付いて座っていた。
 「ここはどこだ」
 お里が小さく微笑む。
 「ここは湯の谷です。虎一様はあれから丸一日半の間眠っておられました」
 「では一昨日の夜は、お里さんが野猿峠から俺を運んでくれたのか」
 「はい。最初は私が」
 俄かには信じ難い話だ。赤虎は六尺を超える身の丈で、体重が二十四五貫はある。
 華奢な体つきのお里が、こんな大男を運ぶのは難しい。
 「如何にして、この俺を運ぶことが出来たのだ?」
 お里はもう一度微笑んだ。
 「柴を束にし、その上に虎一様を載せて、引き摺って来たのです。でもたまたま権平衛さまが通り掛かり助けて頂きました」
 やはり小柄な女の力で、大男の赤虎を運ぶのは難しかった。助けてくれる者が居たわけだ。
 ちょうどその時、男が小屋の入り口に立った。
 「目を醒ましたようだな」
 「はい。先ほど」とお里が答える。
 それからその壮齢の男は赤虎の方を向いた。
 「ぬしはよほど運が強いと見えるな。あの崖の上から落ちたようだが、死なずにおる」
 「貴殿が俺を運んでくれたのか」
 「いや、そこの女子だ。この女子が何者かは知らぬが、早朝のこんな山中にいた。まだ薄暗かったから、俺は山の怪が人を攫って来たのかと思いかけた」
 「そういう貴殿は何故ここにいたのだ」
 「俺は山の伐採の仕方を教えるために、この地の領主に請われてたまたまここに来た。俺が来たのもすい昨日のことだから、ぬしは重ねて運が良かった」
 「先ほど権平衛殿と聞いたが」
 「改めて名乗るほどの者ではない。ただの権平衛でよい」
 「俺は赤平虎一と言う」
 赤虎が己の名を正直に答えると、権平衛の右眉尻が少しく上がった。
 「野猿峠でひと悶着あったようだな」
 「あの峠には、悪賢い悪人が居を構えておる。そいつらは人をかどわかして葉他国に売りさばいておる。俺はそこにいるお里の息子を取り返すために、悪人どもの塒に向かったのだ」
 ここで赤虎は、あの崖の近くにお里がいた理由が分かった。お里は息子が攫われたことを知り、息子の足跡を追い掛けたのだ。
 「だいぶ手強そうな敵だな」
 「何せ先頭に及ぶ猿を操るごろつきだ。手下も百人は超えて居よう」
 「猿だと」
 「猿の頭は真っ白な大猩々だ。ひとの背丈の二倍はある」
 この話で権平衛の表情が引き締まる。あの化け物に強く惹かれるものを感じたらしい。
 「悪人と猿を退治するために、大湯四郎左衛門が着ている」
 権平衛が顎をしゃくった。
 「大湯四郎左衛門。それならそれがしの旧友だ」
 権平衛の言葉遣いが微妙に変わった。そのことで赤虎は、目の前の男が「昔は武士だった」ことを悟った。山男ではない。
 「大湯四郎左衛門が猿退治に立ち上がったか。それは見物だな」
 ここで、権平衛は「あとはお前が」と言うようにお里に顎をしゃくると、小屋から出て行った。

 赤虎はお里に向き直る。
 「お里。ぬしは巌徹を探しに野猿峠まで来たのか。女子のぬしには到底無理な話では・・・」
 その続きの言葉を、お里は遮った。
 「虎一さま。今は火急の事態故、ここで私は真(まこと)の事をお話しします」
 この時、お里は正座をして、赤虎の眼を直視していた。
 「虎一さま。沖屋で虎一さまは、私とどこかで会った覚えがあると申されました。その通りです。私は虎一さまと前にお会いしたことがあります」
 涼しげなお里の表情を見て、赤虎は前の時と同じ思いを抱いた。
 「やはりそうであったか」
 「はい」
 しかし、どこで会ったかが分からない。赤虎はお里の次の言葉を待った。
 「虎一さま。私は神多良(かみたら)島の利江です」
 「利江だと・・・。何を申す。ぬしは利江とは顔も年恰好もまったく違うではないか」
 お里は小さく首を振る。
 「お忘れになりましたか。私は飛首(とっくび)の女です。この日の本で言うところの鬼女です。それが証拠に・・・」
 お里は赤虎から数歩後退りすると、身を固くした。間髪を入れず、お里の体がぶるぶると震え始める。
 「おお」
 驚く赤虎の目前で、お里の体のあちこちが波打ち始めた。
 最も変化したのは顔である。お里の顔は風に吹かれた幟旗のように、激しくはためいた後、先程までのものとは一変した。
 「おお。お前は・・・」
 赤虎の前には、紛れもなくあの島の女・利江が立っていた。
 「利江。生きていたのか・・・」

 あれはこの時から五年前のことだ。赤虎は侍に捕縛され、奴婢として船に乗った。
その船が難破し、流れ着いたのが神多良島である。
 その島は女だけが棲む島だ。女たちは島に流れ着いた船乗りと情を交わし、子を孕むと、夫となった船乗りたちを殺し、血肉を貪っていた。
 蟷螂のすることと同じだが、それもその筈で、その女たちは人ではなく鬼女だった。
 赤虎は侍数人とその島に流れ着き、それまでの男たちがして来たように、女の一人と夫婦になった。
 それがこの利江である。
 利江もやはり鬼女の仲間だが、人を喰らう振る舞いを良しとせず、赤虎のことを島から逃がそうと試みた。
 赤虎は利江と共に島の鬼女たちと戦い、九死に一生を得たのだった。
 その時、利江は赤虎の子を孕んでいた。
 利江は自らが生き延びるためには、腹の子の父である赤虎を食わねばならなかった。
 しかし、それでは他の鬼女たちとなんら変わらない。
 赤虎を殺さぬため、利江は赤虎の前から姿を消したのだった。

 あの島のことを思い出し、赤虎の胸中がざわめき立った。
 「あれからもう五年を超える月日が経つ。再びぬしに会う日が来るとは思うてもみなかった」
 赤虎は口ではそう言ったが、もちろんそれは嘘である。
 利江と夫婦(めおと)であったのはほんの束の間の間であったが、心の交わりは深かった。
 今も時々、利江が赤虎を呼ぶ声が聞こえる時がある。
 「虎一さま・・・」
 もちろん空耳なのであるが、赤虎はその度毎に、声のした方向を振り返った。

 その利江が、赤虎の目の前に立っていた。
 赤虎は身を起こし、筵の上に胡坐(あぐら)を掻いた。
 「利江」
 赤虎は武骨で、かつ愚直なほど真っ直ぐな男だ。
 女子に向かって「会いたかったぞ」とは口に出せぬ。
 こんな類の男は、惚れた女を前にしても、気の効いた言葉ひとつ言えぬのだった。
 ただじっと、かつての妻の顔を見詰め続ける他に術(すべ)は無い。

 赤虎は息を五回する間利江を見詰めた。そうして、漸く赤虎は口を開いた。
 「利江。ぬしは何だか。前より若くなったようだな」
 これは機嫌を取るための言葉ではなかった。
 利江は五年前より、若く、美しく見えた。
 しかし、これに利江は小さく首を振った。
 「あれから私は二度生まれ替わりましたから・・・」
 この利江の言葉に、赤虎の眉間に皺が寄った。
 (「生まれ変わる」だと?一体それはどういう意味だ。) 
 赤虎がそのことを問う前に、利江が話を続けた。
 「虎一さま。あの時、私が孕んだ赤子は男でした」
 「なんだと。男の赤子は母親の腹を食い破って外に出て来るのではなかったのか。男児を産んで、ぬしは無事だったと申すのか」
 島の女が子を孕み、死なずに済む唯一の方法は、子種を与えた男の血肉を喰らうことである。それをしないと、赤子が自ら母親の腹を割ってこの世に出る。
 神多良島の女たちが船乗りを喰らうのは、子孫を繋ぎ、さらに自らが生き残るためだったのだ。
 あの時、赤虎は一か八かの賭けをして、己の腕の傷口を利江に差し出した。
 「利江。俺の血を吸え。これで命を長らえることが出来るかもしれんぞ」
利江は赤虎の血を少し舐めると、赤虎の前から姿を消したのだった。

 「虎一さま。あの時、私は虎一さまの血を舐めさせて頂きました。あれが効き、私は無事に男の子を生み落とすことが出来ました」
 「そうか。それは良かった」
 (となると、俺には息子が出来ていた訳だな。)
 「私はその子に、ひと目だけでも父親の姿を見せてやろうと、この奥州にやってきたのです。そこであの旅籠を虎一さまが度々訪れていることを知りました。それで、あの宿で働くことにしたのです」
 ここで、赤虎は沖屋でのいきさつを思い出した。
 利江が化けていた、あの「お里」には確かに息子がいた。
 「それでは、あの厳徹が・・・」
 「はい。貴方さまの子にござります。私は厳徹にひと目貴方さまを見せたら、そのまま奥州を去るつもりでした。きっと虎一さまは、あの鬼女は死んだと思われているでしょう。だから、私と厳徹のことを、虎一さまには告げずに立ち去ろうと思っていたのです」
 これで赤虎にも合点が行った。
 あの厳徹の尋常ならぬ足の速さだ。
 あれはこの母親の血を引いていたのだ。
 厳徹は当年五歳という勘定になるが、外面(そとづら)は七八歳に見える。それも、やはり「鬼の子だから」という理由なのだろう。
 「虎一さま。今は昔語りをしている時ではござりませぬ。厳徹が人攫い一味に攫われたのです。あの子を救いに参らねばなりませぬぞ」
 赤虎が大猿に放り捨てられた後、厳徹は村人たちと共に連れ去られていたのだ。
 「私は厳徹の残した匂いを辿り、野猿峠まで参りました。しかし、間に合わず、厳徹は連れ去られた後でした。如何に鬼の子といえども、厳徹はまだ子どもです。また、あの子の半分は人なので、私らより成長が遅いのです。あの子一人では、囚われの身から逃れ出ることはかなわぬでしょう」
 「なら俺が救い出しに行こう」
 これに利江は二度首を振った。
 「虎一さまはまだ動いてはなりませぬ。今はひとまず体を休め、来たるべき襲撃の時に備えて下さい。あの人攫いにとって、女子どもは商いの種にござります。それゆえ、すぐに殺したりはしないでしょう。まずは私が敵の巣窟を調べて参ります」
 有無を言わせぬ口調である。また、利江の言い分には確かに理があった。
 利江は鬼女で、並の女とは訳が違う。
 「分かった。ひとまずぬしに任せよう」
 赤虎の返事を聞き、ここで初めて利江が頷いた。
「では虎一さま」
 利江は筵に近寄り、赤虎に背中を見せて座った。利江は顔を半分だけ赤虎に向け、言葉を続ける。
 「虎一さま。あれから五年の間、私は男を喰らうてはおりませぬ。そのせいで、今は鬼の力が弱くなっております。厳徹を救うために、今私は鬼の力を取り戻さねばなりませぬ」
 利江は後ろ向きのまま、するすると帯を解いている。
 「虎一さま。私と貴方さまの間には、一度は夫婦(めおと)になった縁(えにし)がございます。どうか私たちの子を救う為に、今一度、貴方さまの精と血を私にください」
 利江の肩から着物がはらりと下に落ちると、雪よりも白い背中が露わになった。
(注)「飛首(トックビ)」:妖怪の意。

天正19年3月時点の諸候配置図
天正19年3月時点の諸候配置図


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