九戸戦始末記 北斗英雄伝

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



其の十五 修羅の章

 天正十九年五月二十九日。
 疾風、権太夫、仙鬼の三人は、法師岡を出ると平八と別れ、真っ直ぐ九戸郡に南下し、昼前には沼宮内に到達した。
 疾風は二人にそれぞれの家に向かわせ、自らは日戸郷を訪れる。
 日戸内膳に向かい、岩手郡を攻めることを伝えた後、疾風は葛姫のいる山館に向かった。

 翌日の昼過ぎに、疾風は沼宮内の鶴屋に着く。その二日後、沼宮内の街を訪れた紅蜘蛛の前に疾風が現れる。紅蜘蛛に対する疾風の用件は、「共闘し沼宮内城を落とそう」というものである。疾風が城と武具、紅蜘蛛が財宝を取るという条件で二人は手を結ぶ。

 天正十九年六月九日の辰の刻。 
五月末より京に滞在していた南部利直は、この日、聚楽第にて関白秀吉への謁見を許された。領内の内乱を治められぬという理由で、利直と北信愛は秀吉に殺されそうになるが、貢物により助命される。
 秀吉にあからさまに反逆しているというかどで、九戸討伐が宣言された。

 天正十九年六月十六日。
 作戦が開始され、毘沙門党は南北の詰め所を襲撃した。これの防御のため、沼宮内城から侍が出撃し、その隙を狙い、主館大手門から五右衛門一派が侵入した。
 疾風は一気に主館に入り、留守居の河村兵部を討ち取る。城内を制圧すると、毘沙門党の紅蜘蛛や窮奇郎が入城した。窮奇郎は疾風への恨みを忘れず、背後から疾風の命を狙う。狂人と化した窮奇郎と疾風の決闘が始まり、疾風は窮奇郎を倒した。
 この時、城はこの城本来の主である河村治部の軍に取り囲まれていた。河村は九戸党に攻められている田頭城の援軍に向かう所であったが、不吉な予感を覚え、沼宮内城に進路を替えたのである。河村は一千数百兵で城を囲み、攻撃を開始する。

 大手門が破られようとした時、別の軍が城に寄せてきた。九曜の旗を掲げた九戸党の軍隊である。その軍隊が二千を超える兵力であることを知り、河村治部は東に退却する。
 入れ替わりに入城した侍は、一戸信濃と言う平舘城主で、田頭城を落とした後、沼宮内に転戦してきたのであった。この沼宮内への転戦は、沼宮内攻めの重要さを知る九戸政実の命によるものであった。

 天正十九年六月十九日、伊達領大崎。
 新領主の伊達政宗は三日前に当地に着陣していたが、この日一揆勢との交戦を開始した。
政宗が米沢より連れて来たのは、伊達のほぼ全軍である二万四千兵である。政宗はこの軍を二つに分け、南北二方向から大崎に東進し、各地で一揆勢の掃討作戦を展開していた。翌日には、政宗は笠原民部の立て篭もる宮崎城を包囲した。
政宗は一揆軍を数日の間攻略できずにいたが、城の内側に兵を密かに侵入させ、開門させることによりこの城を落とした。
 一揆勢は五百人が逃亡。二千余人が戦死し、捕虜となったのは二百人である。政宗はこの捕虜たちの首を悉く刎ねる。
 天正十九年七月一日。
 伊達軍は佐沼に着陣し、全軍が合流し総勢二万四千兵で攻撃を開始する。城内の一揆勢はほぼ一万人。大将は葛西一門の千葉信胤・信重兄弟である。
七月三日に、政宗は城の背側から城壁に取り付く作戦に出て、佐藤為信らの騎馬隊が一斉に乗り込み、城門を破ることに成功した。
伊達軍は一気に城内に乱入し、一揆勢に対しいわゆる撫で斬りを行った。籠城し最後まで抵抗した者たちは、それこそ女、子供にいたるまで徹底的に撫で斬りにされた。
 政宗が佐沼城で殺したのは、総数で六千人を超えた。

 天正十九年七月六日。
 伊達軍の主力が去った後の佐沼城下を、二騎の侍が訪れていた。ここに潜入したのは、工藤右馬之助と天魔源左衛門(卍)の二人である。
 右馬之助は穴に放り込まれた死体を見て、故郷の民をけして同じ目には遭わさせぬと心に誓った。

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