北奥三国物語 

公式ホームページ <『九戸戦始末記 北斗英雄伝』改め>

早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



不来方情夜                   早坂アンナ

 本作は平成28年5月より盛岡タイムス紙に掲載された短編小説である。
 異世界から来た鬼と戦う話の続編で、主役は毘沙門党の盗賊である紅蜘蛛お蓮。
 兄である赤虎の死後、概ね天正末期の時期設定となっている。

 『不来方情夜』

盛岡城址
盛岡城址

 時は天正の末、季節は晩秋の頃のことである。
 日戸(ひのと)佐助は配下二人を連れ、奥州鳥谷(とや)ヶ崎(花巻)城から岩手郡に戻ろうとしていた。
 佐助は岩手郡日戸郷の地侍、日戸内膳の三男である。その頃、佐助は鳥谷(とや)ヶ崎城代である北左衛門佐の許に出仕していたのだが、墓参のため一時帰郷を許されたのである。
 三人は岩手郡に入り、日戸郷まで残り二十里に満たぬ所まで届いていた。そこで佐助は馬を休ませるために道を外れ、十五間ほど離れた小川の辺(ほとり)に降りた。
 三人は思い思いの場所に腰を下ろし、長旅に疲れた体を労わった。
 間もなく、上の道の方から人の声が聞こえて来た。小川は人の背丈の高さほど道から下がった場所にあるから、先方からはこちらの姿は見えぬ。しかし、佐助の側からは、首を少し上に伸ばせば相手のことがよく見えた。
 道を行こうとしているのは、男二人女二人からなる四騎の一団だった。
 その中の一人の大男が主と思しき女に向かって、何やら声高に話し掛けている。
 「お蓮さま。先ほど空の上を飛んでいたあの丸い光が船だというのは、真(まこと)のことですか」
 大男らしく如何にも武骨な声である。
 これに女主(あるじ)が周囲によく響く声で答えた。
 「ああその通りだ。わたしは前にもあれを見たことがある」 
 夕日を浴びながら、四騎は小川のすぐ上の道を通ろうとする。
 一行は佐助からほんの十間先である。
 佐助は四人の顔をはっきりと見取ることが出来た。
 「あ。あの女は…」
 佐助には女主の顔に見覚えがあった。
 「あれは紅蜘蛛ではないか」
 紅蜘蛛は、奥州に名高い極悪人の一人だった。
 佐助が女を見間違える筈が無い。
 何故なら、佐助はかつて、この紅蜘蛛が瞬時にして二人の侍を斬り捨てるのを、直(じか)に目の当たりにしたことがあったのだ。
 紅蜘蛛はこの辺りではけして見られぬほどの美貌の持ち主だ。しかし、男心をとろけさすような美しい外面(そとづら)の下には、人殺しを何とも思わぬ残忍な心が隠されているのだった。
 「これは捨て置けぬ」
 ここで佐助は瞬時に腹を決め、手招きで従者二人を呼び寄せた。
 そこで佐助は、声が上の道に届かぬよう、小声で命を授けた。
 「一人は直ちに仁王郷まで戻り、『女盗賊の紅蜘蛛がいる』と不来方城に報せよ。そしてすぐにありったけの手勢を連れて戻って来い。そうだな。小六、お前が行け。わたしと嘉兵衛は、このままやつらの後を尾(つ)ける。今宵は大捕り物になるぞ」
 従者二人が揃って小さく頷く。
 「あやつらは町屋には向かうまい。あの様子ではおそらく新庄だろう。道別れまで追い、もし別の方角に向かうようなら、嘉兵衛。ぬしがその場に留まり、きゃつらの行く先を捕り手に報(しら)せるのだ」
 「はい。畏まりました」
 「小六。音を立てぬように行けよ。あやつらは極悪人だから、手勢は三十や四十は要る。福士殿にそう申し伝えよ」
 佐藤小六がすぐさま立ち上がり、馬を引いて脇道に向かった。

 思いも寄らぬ成り行きに、佐助は独り言を呟いた。
 「しかし、紅蜘蛛ともあろう者が、あのような軽装で出掛けようとはな。小ぶりの刀一本しか身に着けておらぬではないか」
 盗賊団はいずれも小袖と奴袴(ぬばかま)の上に薄い上掛けを羽織っただけで、如何にも「大慌てで出て来た」という風情だった。
 「ともあれ、敵に気(け)取られぬように、少し間を置いて後を尾(つ)けよう」

 佐助が推し計った通り、盗賊は道別れに来ると、山道の方に足を転じた。
 「やはり新庄の方角だ。一体、何をしに行くのだろう」
 盗賊たちの意図は分からぬが、ひとまず黙って尾(つ)いて行くしかない。
 そのまましばらく進むと、盗賊たちが向かった先は、ある山の中腹だった。
 その山の正しい名は定かではないが、通称では「薄山」と呼ばれている山だ。
 佐助は一定の距離を保ち、紅蜘蛛一行の後を追った。
 程なく盗賊たちが足を止めた。
 そこで佐助の方も草叢に潜んで様子を見ることにした。
 木々の向こう側に、何かは分からぬが白く光る大きな物体が見えている。
 「あれは一体何だろう」
 佐助が気配を消しつつ近くに寄って見ると、その物体は丸いかたちをしていた。
 「まるで、とてつもなく大きな鳥の卵のような姿だな」
 佐助が木陰から注視する中、盗賊たちはその大卵の真ん前に立っていた。

 ここで盗賊の一人が話し始める。
 「お頭。このことですかい」
 「そうだ」
 「この大きな卵みたいなやつが船だと言うんですか」
 「ああ。この中に鬼が乗るのだ」
 「鬼ですかい。そりゃまた。へへ」
 手下は顔に薄ら笑いを浮かべている。
 女主の話を本気にしていないのだ。
 紅蜘蛛はその男には構わず、さらに卵に近付いた。
 佐助からは遠すぎるため、卵の全貌を掴むことは出来ぬ。それでも、およそ縦径二十間はあろうかという大きな卵形であることは間違いない。
 「盗賊どもめ。あれを見に来たのか」
 佐助は背後の嘉兵衛を呼び、新たな命を伝えた。
 「よし。この下の道まで降り、捕り手をここまで案内(あない)せよ。きゃつらに気取られぬよう、けして物音を立てるなよ」

 この時、紅蜘蛛は大卵に手が触れられるほど近くに寄っていた。
 「やはりな。これはあの時の船と同じだ」
 それはこれより六年ほど前のことだった。
 紅蜘蛛は盗賊団の首領を迎えるため米沢に向かった。その首領とは紅蜘蛛の義兄・赤平虎一のことである。
 紅蜘蛛は米沢で義兄と合流し、その帰路、三匹の鬼と遭遇した。
 そして、兄妹で力を合わせ、その悍(おぞ)ましい鬼に立ち向かったのだ。
 紅蜘蛛はその時のことを、今も鮮明に記憶している。
 「あれは、まこと怖ろしい鬼だった。人を食って、その者の姿に化けるのだからな」
 義兄二人と紅蜘蛛は死闘の末に二匹を倒しが、鬼は全部で三匹いた。
 残り一匹の鬼は、大きな卵形の船に乗って、空に飛び去ったのだった。
 今この時、紅蜘蛛の眼の前には、あの時の船とまったく同じかたちの大卵が鎮座していた。
 
 紅蜘蛛は無意識のうちに深い溜め息を吐いた。
 「またあの鬼が現れたのか。これは厄介なことになるぞ」
 紅蜘蛛が最も頼りとする長兄は、既にこの世を去っている。あの時、共に鬼と戦った次兄の窮奇郎も今はいない。
 「お頭。卵が口を開けていますぜ」
 手下の一人が大卵の横に回って見ていたが、何かを発見したらしい。
 その手下は紅蜘蛛を手招きで呼び寄せた。
 紅蜘蛛がそこに向かうと、大卵の片隅に大きな丸い穴が開いていた。
 ちょうど人ひとりが通れるくらいの穴だ。
 「鬼め。どうやら中にはおらぬようだな。どこかに出掛けているのか」
 もはや夕暮れが迫り、辺りは次第に暗さを増している。
 「よし。まずは松明(たいまつ)に火を灯せ。この中を見てみよう」
 すぐさま手下たちが火を熾(おこ)した。
 紅蜘蛛は松明に火を灯し、それを高く掲げて、舟の中に入った。
 しかし、一行が中を見ようとするのに、松明の灯りなど不要だった。
 紅蜘蛛が足を踏み入れると同時に、卵船の中にパッと灯りが点いたからだ。

 この時、佐助は十数間離れた斜面の上にいたが、盗賊たちの動きはよく見えていた。
 「一体、あれは何なのだ。船だとか鬼だとか。あやつらは何の話をしておるのだ」
 盗賊たちが船内に姿を消したので、佐助はゆっくりと船に近寄った。
 そこでしばらくの間中の気配を伺っていると、この場に不来方城の侍たちが到着した。
 皆、二丁手前で馬を下り、徒歩でこの場所に上って来ていた。
 そのことを見取り、佐助はその一行に対し労いの言葉を掛けた。
 「よし。皆よくこの場を心得ておる。物音ひとつ聞こえなかったぞ」
 この言葉を聞き留め、佐藤小六は誇らしげな顔で微笑んだ。
 ここで佐助がその小六に確かめる。
 「小六。手勢を幾人引き連れて来たのだ」
 「三十六名にござります」
 「よし。相手は僅か四人だけだ。いかに紅蜘蛛といえども、相手は僅(わず)かに四人。こちらの方がはるかに有利だろう」
 この頃、紅蜘蛛は大卵の内部に入り、各所を隅々回って検分していた。
 しかし、この船の中には得体の知れぬ器具が並んでいるばかりで、それが何か、紅蜘蛛には皆目見当が付かない。
 紅蜘蛛は仕方なくそのまま最初の穴から外に出ようとした。
 すると、大卵の外には、大勢の侍たちが待ち受けていた。侍たちは手に手に武具を携えている。
 すなわち、その者たちは紅蜘蛛を捕えようとする捕り手に他ならない。紅蜘蛛は、その侍たちの素性を一瞥してすぐに悟った。

盛岡城址
盛岡城址

 まず一人の男が先頭に立ち、紅蜘蛛に向かって口上を上げ始めた。
 「紅蜘蛛。それがしは日戸郷より参った日戸佐助だ。これより貴様を捕える。大人しく従えばよし。不来方城に貴様を連れて行き、そこでお裁きを受けさせる。だが、もしぬしが従わぬ時は、この場で切り捨てるぞ。神妙にそこに直るがよい」
 これを聞き、紅蜘蛛はほんの一瞬だけ両眼を大きくしたが、それはすぐさま元に戻った。
 「このわたしのことを、そんな小人数で捕縛出来ると思うておるとはな。実に笑える。お前は本当に能天気なやつよの」
 「何だと」 
 周囲の捕り手たちが一斉に気色ばみ、じりじりと間合いを詰める。
 しかし、この時、紅蜘蛛は佐助たち捕り手の後方に何物かを発見していた。
 そのものがよほど気になったのか、紅蜘蛛は佐助の後方から視線を外さずにいた。

 徐(おもむろ)に紅蜘蛛が小さく頷く。
 そして紅蜘蛛は己の視線の先を指で差し示した。
 「おい。佐助とやら。わたしより己の後ろに気を付けるが良いぞ。その林の向こうに若い女が立っておろうが。そやつを見てみるがよい」
 紅蜘蛛の言葉を受け、佐助と従者が後ろを振り返ると、紅蜘蛛の言葉の通り、そこに一人の女が立っていた。年恰好は二十三四歳ほどのほっそりとした娘だ。
女は薄紅色の小袖一枚を身に着けている。この季節にしてはいかにも軽装であった。
 女を見る佐助の背中に、紅蜘蛛の言葉が浴びせ掛けられた。
 「佐助。そやつは女の姿をしているが、人ではない。人を取って喰らう鬼だぞ」
 佐助は再び紅蜘蛛の方に向き直った。
 「何を言う。たわけたことを申すな。斯様(かよう)な華奢な女のどこが鬼だと申すのか」
 紅蜘蛛が顎をしゃくる。
 「ふふ。よく見てみろ」
 佐助はもう一度、後ろの女の方に振り向いた。
 「なに!」
 その時、若い女は全身をぶるぶると震わせていた。尋常の無い激しい震わせ方だ。
 あまりの揺れの激しさで、女が着ていた小袖が脱げ落ち、すぐに女は真裸になった。
 佐助らの目前で、女の真っ白い肌が見る見るうちに赤黒く変わって行く。
 「うわあ」「何だこれは」
 捕り手たちが女の傍からさあっと離れた。
 それもその筈だ。女の背丈は一瞬にしてむくむくと伸び、高さ十尺に達していた。
 体のかたちが変貌を遂げると、その場に立っていたのは筋肉隆々の大鬼だった。
 鬼はほんの一瞬だけ動きを止め、周囲の侍たちをぐるりと見渡した。
 その後、その女鬼は、突然、尋常ならぬ速さで動き出した。鬼は周りの侍を手当たり次第にひき掴むと、その首をねじ切り、手足を引きちぎった。

 その様子を見て、紅蜘蛛は著しく眉をひそめた。
 「これは良い所にあやつが来た、と思ったが、この調子では、侍だけでなく、わたしらまでやられてしまいそうな按配だな」
 しかし、紅蜘蛛は頭がよく回る。
 すぐさま、この場の打開策を見出した。
 「よし。男二人は松明の火を船の中に投げ入れろ。この船を燃やしてしまうのだ。お菊。お前は先に逃げろ」
 紅蜘蛛は供の女の背中に片手を当てて、船の後ろの方に押しやった。
 「わたしらはすぐにお前の後を追う。お前は町屋にある我らの隠れ家まで行き、そこで待っておれ」
 「はい」
 紅蜘蛛に「菊」と呼ばれた侍女は、すぐさま夕闇の中に姿を消した。

 船の中には何かしら燃え易い物が積んであったらしい。盗賊たちが松明を投げ入れると、瞬く間に炎が上がった。まずは内部に煙が充満したかと思うと、突然、外に向かって炎がどっと噴き出した。
 「ぐぐぐぐ」と船内にある何かが軋(きし)む。
 誰一人、過去に一度も聞いたことの無いような大きな音だ。 
 女鬼はそれまで侍たちを相手に暴れていたが、卵船に生じた異常を感じ、ここで動きをぴたりと止めた。
 女鬼が視線を船に向けると、たまたまその前に立つ紅蜘蛛と視線が交錯した。
 「ううう」
 その瞬間、女鬼は何かを思い出したように、眼を大きく見開いた。
 かたや紅蜘蛛の方は、鬼のその眼の色で、瞬時にこの女鬼の心の内を悟った。
 「不味い。鬼め。あの時のことを想い出したか」
 前回遭遇した時、紅蜘蛛は兄たちと共に、その鬼の伴侶と子の二匹を殺していたのだ。
 間違いなく、鬼は紅蜘蛛を恨んでいる筈である。
 とならば、必ずや鬼は紅蜘蛛の方に矛先を変えて来る。
 紅蜘蛛はそのことを確信した。
 そこで紅蜘蛛は後退りしながら、手下に告げた。
 「おい。お前ら。すぐに逃げるぞ」
 その言葉を言い捨て、紅蜘蛛は手下二人をその場に置き去りにして、独りで駆け出した。
 慌てた二人が紅蜘蛛の背中に声を掛ける。
 「お頭。馬はどうすんですか?」
 「そんなものは捨て置け。とにかく早くこの場から離れるのだ。鬼が船の火を消している間に、出来るだけ遠くに逃げるぞ」
 「へえ」「へえ」
 男二人も必死で紅蜘蛛に続く。

 三人は山道を走りに走り、あの卵船から三里ほど離れた。
 さすがに脚が上がって来たので、三人はひとまず小休止することに決め、道端の草叢に腰を下ろした。
 間髪入れず、薄山から五騎が走り込んで来た。疑うべくもなく捕り手の侍たちだ。
 馬群が紅蜘蛛たちの目の前まで来ると、先頭の一騎が石に躓き、鞍上から侍が転がり落ちた。
 直後の馬がそれに驚き、急に脚を止める。
 このため、続いてもう二騎の鞍上が落馬した。
 その侍たちが転がり落ちたのは、ちょうど草叢にいた盗賊三人の目と鼻の先だった。
 「あ。お前らは」
 侍に見つかったからには致し方ない。
 紅蜘蛛と手下が草叢から立ち上がり、侍に対峙する。
 この時、後方からさらに一騎が駆け寄って来た。馬群のしんがりにいたのは日戸佐助だった。
 佐助は紅蜘蛛に目を留めると、厳しい口調で問い掛けて来た。
 「紅蜘蛛。あの恐ろしい化け物は一体何者なのだ。あっと言う間に三十人もやられたぞ」
 「あやつはどうなった?」
 「すぐにも我らを追って、ここに来よう」
 「それは不味いぞ。あの鬼には侍五十人が掛かっても太刀打ち出来ぬ。あやつを倒すには鉄砲が要る」
 ここで佐助は紅蜘蛛の顔を正視した。
 「紅蜘蛛。今は議論しておる余地は無い。ここでぬしに問う。あの化け物はお前の敵か、味方か。一体どちらなのだ。直ちに答えよ」
 「あんな化け物だぞ。仲間であろう筈がない。敵に決まっておろうが」
 これでひとまず佐助は安堵した。
 「なら、敵の敵は味方だ。今この時だけはぬしはそれがしの側だろう。なら直ちにこの馬に乗れ」
 今は急場の時だ。背に腹は代えられぬ。
 紅蜘蛛は佐助の差し出す右手に掴まり、馬の後ろに跨った。
 「どこに参るのだ。佐助」
 「不来方城だ。あそこには堅牢な城壁があり、城内に火縄が十挺はあろう。城主は父の知己だから、それがしでも話が通じる」
 「よし。なら、さっさと行こう」
 紅蜘蛛は馬の背に揺られながら、佐助の腹の内を推し量った。
 (こやつは何故わたしのことを後ろに乗せたのだろう。敵なのだから、我らなど捨て置いて、己のみ逃げれば良いものを。)
 その答は簡単なものだった。
 「なるほど。大鬼は後ろから迫る。わたしを乗せていれば、鬼は先にわたしのことを捕まえる筈だからな。こやつは一策を講じたのだ。なかなか知恵が回るやつだ」

 不来方城は福士氏の居城で、平山城のつくりだ。周囲が急坂なので、守るに易く、攻めるのは難しい。
 捕り手と盗賊は、五頭の馬に相乗りをして、一気に城内に駆け込んだ。
 門の中に走り込むと、即座に佐助が叫ぶ。
 「門を固く閉じよ!敵が攻めて来るぞ」
 この叫びに応じ、本館から侍たちがばらばらと走り出て来た。
 「敵は大鬼だ。この世の者とは思えぬ化け物だぞ。直ちに鉄砲の支度をせよ」
 佐助の声に応じ、すぐさま人々が動き出す。
 ここで改めて佐助が紅蜘蛛に尋ねた。
 「紅蜘蛛。あれは一体どのような化け物なのだ。今の内にぬしの知り得る限りのことを話して置け」
 用人が中庭の中央に床几(しょうぎ)を運んでくる。
 槍や刺又などの武具も脇に揃えられた。
 佐助はその床几に腰を下ろし、戦支度を整え始めた。

盛岡城址
盛岡城址

 佐助の隣では紅蜘蛛が武具を選んでいる。
 紅蜘蛛は刀を確かめながら、佐助に鬼の説明をした。
 「あの化け物はだな。あの薄山にあった卵形の船に乗って空を飛んで来たのだ。どこから来たのかは分からぬ。月なのか。それとも別の星なのか。分かっていることは、あれは間違いなく人の仲間ではないと言うことだけだ」
 「お前は過去にもあやつに遭遇したことがあるのだな」
 「そうだ。前に兄たちと共にあの鬼と戦ったことがある」
 佐助が感心したように頷く。
 「鬼退治に関わったのか。なら、ぬしは盗みや押し込みを働くだけではなく、幾らかは世のため人のためになるようなこともしている訳だな」
 この言葉に、紅蜘蛛が「ふん」と鼻を鳴らした。
 「そんなことはない。ひと度あやつに遭遇したなら、ただ必死で戦うだけだ。戦わねば、あやつに食われてしまうからな。なにせわたしらはあの時、あいつの・・・」
 と言い掛けて、そこで紅蜘蛛は口を閉じた。
 もしかしたら、今ではあの鬼の狙いが、食い物ではなく復讐にすり替わっているかも知れぬからだ。  
 もちろん、そうなれば、鬼の目指す相手は紅蜘蛛ただ一人になって来る。
 あの女鬼にとって、紅蜘蛛は夫や子の仇敵であることは疑いない。
 鬼が仇敵を殺すのを目的としており、それが紅蜘蛛一人のことだと知ったら、この城の侍たちは真っ先に紅蜘蛛を城の外に放り出すだろう。
 あの鬼を相手に戦うとしたら、如何せん紅蜘蛛一人では勝ち目が無かった。
 紅蜘蛛は「ここは流れのままに任す方が無難だろう」と考えたのだ。

 戦いの支度をしているうちに時が過ぎ、あっという間に戌(いぬ)の刻を過ぎた。
 城内では、侍たちが戦支度を終え、全員が腰を下ろして鬼の襲撃に備えていた。
 一人の若侍が待ち切れぬように呟いた。
 「女鬼め。なかなか参らぬな。それがしが倒してやるのに」
 勇み立つ若侍の言葉を聞き留め、傍らにいた年嵩(かさ)の侍が首を振った。この男は、薄山から逃げ帰った侍の一人だった。
 「ぬしは、あやつを直に見ておらぬから、そんなことが言えるのだ。今やわしは、あやつが来ないでくれるなら、それに越したことはないと思うておる」
 「貴殿は腰が退けとるのか」
 「ああ。正直わしは怖ろしい。目の前で三十人がたちまちの内に殺されたのだ。皆ぬしの仲間たちだったろうに」

 この時、通用門の方角から小さな音が聞こえて来た。
 「コツコツ」と響く、枯れた音だ。
 外側から誰かが扉を叩いているのだ。
 通用門の守護に当っていたのは、五人の侍だった。
 「この時分に何だろ」
 「鬼ではないのか」 
 「まさかそんなことはあるまい。鬼が扉を叩き、ご丁寧に『御免下さい』などと申すものか」
 「それもそうだな。なら小窓を開けて外を覗いて見よ」
 一人が通用門の方に歩いて行く。

 この時、佐助と紅蜘蛛は本館の前に立っており、二人はそこでその報せを受け取った。
 本館から通用門までは五十間近い距離がある。
 用人が佐助に告げる。
 「そちらの女人の従者だと申して、お菊と名乗る娘が参っております」
 この話に紅蜘蛛が首を傾げる。
 「菊が来ただと。菊が自らの意思でこの城に参ったと申すのか。そんなことが・・・」
 紅蜘蛛がはっと顔を上げる。
 「いかん。門を開けてはならぬぞ。それは菊ではない。菊はもう鬼に殺されたのだ。そして、今はあの鬼が菊の姿に化け、城内に押し入ろうとしているのだ」
 すかさず通用門の方から、「ぎゃあ」という声が上がる。
 「愚かな。扉を開けてしまったのか。日戸佐助。もはや鬼が城の中に入ったぞ」
 これを聞くと、佐助は傍らの手槍を引き掴み、通用門に向かって駆け出した。
 走りながら佐助が叫ぶ。
 「砲手たち。それがしに続け!」
 「はい」「はい」
 砲手四五人がばらばらと佐助の後を追った。

 通用門のすぐ内側には、引きちぎられた下働き数人分の骸が散らばっていた。
 その真ん中に立っていたのは、お菊の姿をした鬼だった。
 お菊は血飛沫を浴びて、全身が濡れそぼっていた。
 今の外見は十七八の娘だが、いずれこれが瞬く間に鬼に変化(へんげ)するのは間違いない。
 もはや疑いの余地は無かった。
 紅蜘蛛は怒りを露わに、この娘に対峙した。
 「おのれ鬼め。わたしの侍女を殺したな。お菊のことは、小さき頃から妹のように可愛がって来たのだ。貴様のことは断じて許さぬぞ」
 紅蜘蛛は背中に背負った二本の刀を同時に引き抜いた。
 「ぬしをここから生かしては帰さぬ」
 紅蜘蛛は憤怒の形相で、じりじりと女鬼に近寄った。
 「ぬがあ!」
 女鬼はひと声吠えると、すぐさま正体を露わにした。
 むくむくと手足が伸び、八尺、十尺と体が大きくなる。それと同時に、額の両側からは、みりみりと音を立てて長い角が現れた。
 鬼の震えが止まった時、そこに立っていたのは、体が蟷螂(とうろう)で牛の頭を持つ、如何にも奇怪な化け物だった。
 紅蜘蛛の傍らで佐助が呻(うめ)く。
 「何という姿だ。こやつはまるで、たった今、地獄の底から這い出てきたような悍(おぞ)ましい姿をしておる」
 ここで本館から長槍を構えた侍たちが走り出て、ばらばらと散開した。
その後ろで鉄砲隊の支度が出来たのか、火縄の匂いが漂って来た。
 佐助が槍兵の後方に眼を向けると、砲手たちが鉄砲を構えていた。
 佐助は直ちに砲手に命じた。
 「よく狙えよ」
 佐助の気配に、己の危険を悟ったのか、鬼が前衛に襲い掛かろうとする。

盛岡城址
盛岡城址

 すかさず佐助の声が飛んだ。
 「下がれ下がれ。こやつと充分に間を取って、齧りつかれんようにしろ」
 前衛が長槍を一斉に突き出すと、鬼も無防備に前には出て来られない。
 鬼は紅蜘蛛をじっと見据えたまま、様子を窺う。

 「よし。槍兵は下がれ」
 この号令で、長槍兵が数歩後退すると、銃を構えた砲手たちが前に出た。
 「撃て!」
 「どう」と銃声が響く。
 数発が胴体に命中し、鬼がよろめく。
そこに砲手の第二陣が進み出る
 「撃て!」
 再び鬼に数発が命中する。 
 鬼は銃弾を体にまともに受け、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。

 佐助は充分に警戒しながら、地に伏す鬼の屍に近付いた。
 「どれ。どんな正体なのか、じっくり見てやろうか」
 佐助は槍の穂先で鬼の頬を突く。
 「醜いのう。こんな獣じみた姿なのに、あんな船を作る頭と技をも持ち合わせておると申すのか」
 佐助は腰を屈め、鬼の顔を覗いた。
 その時、紅蜘蛛は鬼の体躯に開いた弾痕を詳細に検分していた。
 銃弾が開けた穴は胴体のあちこちに開いていた。しかし、紅蜘蛛が三回呼吸をする間に、その穴はしゅっと小さくなった。
 すかさず紅蜘蛛が叫ぶ。
 「佐助。気を付けよ。こやつはまだ息絶えてはおらぬぞ」
 紅蜘蛛が跳び退(すさ)る。その直後、鬼が己の触手を長く伸ばし、佐助の首根っこを掴まえた。
 「うぐ」
 驚いた砲手たちが鉄砲を向ける。
 これを紅蜘蛛が制止した。
 「撃つなよ。今撃てば佐助に当たる」
 紅蜘蛛はふた呼吸だけ息を整えると、いきなり跳躍し、佐助を掴む鬼の上腕に刀を振り下ろした。
 ぶしゅんと音を立てて、鬼の六本の腕のうち一本が切り落とされた。
 その機を逃さず、佐助は転がるように鬼から離れた。
 「済まぬ、紅蜘蛛。助かった」

 腕の一本を失った鬼は、紅蜘蛛の目前で動きを止めた。しかし、腕を落とされたことで、鬼が怯んだわけではなかった。
 鬼の体のあちこちから体液が滲み出て、それが銃創や腕の傷を覆い隠そうとしていたのだ。
 周囲が見詰める中、あっという間に鬼の体は元通りに戻っていた。
 切り落とされた腕にも、新しい腕が生えている。
 ここで、紅蜘蛛が鬼を見据えたまま呻くように漏らした。
 「こんな化け物を、一体どうやって殺せば良いのだ・・・」
 その傍らで、再び佐助が命じた。
 「者ども。今を逃すな。撃て!」
 どうどう、と一斉に銃声が響いた。
 しかし、鬼は弱るどころか、体をさらに大きくした。
 一度銃弾を体に受けたことで、銃撃に耐えられるようになったのだ。

 この時、紅蜘蛛は心の中で長兄に呼び掛けていた。
 「兄者。わたしはどう戦えばよいのだ。教えてくれ」
 今や絶体絶命の危機だった。 
 「虎兄(にい)がここにいてくれたら、きっとその答えを教えてくれたのに」 
 紅蜘蛛の脳裏に義兄の姿が甦る。
 こんな事態なのに、紅蜘蛛の頭に浮かぶ義兄は、どういうわけか顔に笑みを浮かべていた。
 その義兄が口を開く。
 「お蓮。あれこれ悩むな。物事が面倒に見える時には真っ直ぐ考えるのだ。正面から堂々と突破しろ。そして、それから後のことはこの俺に任せて置け」
 それは紅蜘蛛の義兄・赤平虎一の口癖だった。
 兄は戦災孤児をまとめ、侍に復讐するために盗賊団を組織した男だった。
 兄の盗賊団は侍たちに幾度も追われたが、厳しい状況の時ほど、兄は自ら最も困難な役を務めたのだ。
 侍との争いの中では、兄は常に先頭に立った。逃げる時には、もちろん、しんがりだ。そして、そんな時、あの兄はいつも笑っていた。

 「あ。そう言えば・・・」
 紅蜘蛛は長兄が鬼の一匹を倒した時のことを想い出した。
 あの時の兄は、空中高く跳躍して、鬼の頭の斜め上から大刀を振り下ろしたのだ。
 そこで鬼が怯んだところを、兄は一刀で鬼の首を胴体から切り離したのだった。
 「きっとあの鬼は脳天のどこかに弱点があるのだな。よし」
 しかし、今の紅蜘蛛には、あの時の兄のような跳躍力はない。
 そこで周りを見渡すと、その場から十五間ほど先に物見櫓(やぐら)が立っていた。
 すかさず紅蜘蛛は佐助に告げた。
 「佐助。わたしはあの櫓で鬼を迎え討つ。お前はわたしがあそこに上ったら、この鬼を櫓の下まで導くのだ」
 そう言い残して、紅蜘蛛は侍の一人から長槍をひったくって櫓に走った。
 佐助はその紅蜘蛛の背中を呆然と見送った。
 「物見櫓だと・・・。あの女はなにをしようと言うのだ」
 しかし、佐助には考えている暇は無い。
 佐助の目前では、鬼が周囲の侍を次々に捕まえては、その体を無慚に引きちぎっていたのだ。
 あっという間に十人が倒された。
 これで侍勢は総崩れになった。
 佐助たちは、鬼を櫓に導くどころか、その鬼から逃れるため、一目散に物見櫓の方に走った。
 しかし、鬼の脚は恐ろしく速い。
 佐助が物見櫓まで達した時、鬼は佐助を掴む寸前だった。
 「く」
 ついに、鬼の手が佐助の頭を掴んだ。
 佐助の表情が著しく歪む。
 鬼は佐助の頭を掴んだまま、一歩二歩と前に進む。
 鬼に推され佐助の背中が櫓の柱に突き当たった時、ちょうどその鬼が紅蜘蛛の真下の位置に届いた。
 この時、紅蜘蛛は櫓の一番上に立っていた。

 「どれ。ずっぱりと、あやつの頭を貫いてやるか。エイッ」
 紅蜘蛛は長槍を構え、櫓の上から鬼の脳天を目掛けて飛び降りた。
 「ずしん」と重い音がして、紅蜘蛛の構えた槍が鬼の首の根元から体の中心を貫いた。
 長槍は鬼の体を折り畳むように、その胴体を串刺しにして地面にまで届いた。
 これで鬼が動きを止めた。
 この時、鬼の頭は佐助の顔からほぼ一尺の位置にあった。
 佐助は鬼の目力が明らかに弱っているのを見取った。
 佐助はこの機を逃すまいと鬼の手を払い、腰を屈め、櫓の下から逃れた。
 佐助は体勢を立て直すと、そこで「ふうっ」と息を吐いた。
 「またも紅蜘蛛に命を救われたか。これで今宵は二度目だ」
 ここで佐助は大刀を握り直し、再び鬼に対峙した。 

 かたや紅蜘蛛の方は、高所から落下した勢いで、鬼の後ろをごろごろと転がっていた。
 そうして、紅蜘蛛は立木の根元にごつんとぶつかり、そこでようやく止まった。
 しかし、紅蜘蛛は間髪入れず、すぐに起き上がった。
 「あやつは死んだか。わたしはあやつを仕留めることが出来たのか!」
 紅蜘蛛がそれを確認すべく顔を向けた時、その牛の頭をした鬼は死んではいなかった。
 紅蜘蛛の一撃は、鬼の動きを一刻封じただけだった。
 鬼の本当の急所を外していたからだ。
 しかも、鬼はまたもやぶるぶると体を震わせ始めていた。
 それを見取り、佐助が叫ぶ。
 「こやつはまた何かに変わろうとしているぞ!紅蜘蛛、気を付けろ」
 佐助の叫びに、周囲の侍たちが一斉に後ろに下がった。

 侍たちが退く中、紅蜘蛛一人が刀を構え、怯むことなく、もう一度鬼に立ち向かおうとしていた。
 紅蜘蛛が鬼の前に立った時、ちょうど鬼の震えが止まった。
 すると、鬼は一瞬にして姿を変え、壮齢の男の姿に化けていた。
 男は真裸だ。松明の灯りに照らし出され、がっしりとした男の体躯が浮かび上がった。
 その男の姿を目の当たりすると、紅蜘蛛も動きを止めた。
 驚愕のため、紅蜘蛛の両眼が大きく見開かれた。
 「お前は・・・。虎兄(にい)ではないか」
 そこにいたのは、紅蜘蛛が最も敬愛する義兄の赤平虎一だった。
 あまりの展開に、紅蜘蛛が呻く。
 「貴様。何故、兄に化けられるのだ。兄は貴様に殺されたわけではないのに・・・」
 長兄の姿をしたその男は、紅蜘蛛に向かってゆっくりと頷いた。
 「今のこの姿は鬼が化けたものではない。俺はぬしの求めに従って、あの世から戻って来たのだ。ぬしはどうやってこの鬼を倒すのか教えろと俺に訊いたであろう。それで俺はこの世に甦ったのだ」
 「虎兄がこの世に生き返ったと申すのか」
 男は紅蜘蛛が驚くさまを見て、少しく微笑んだ。 
 「ぬしは天涯孤独の身の上だ。俺に傍に居て欲しいであろう。俺に支えて欲しいであろう。なら、これから俺がずっと傍にいてやろう。だから」
 「何だ」
 「今は俺を殺すな」
 男の言葉を聞くと、紅蜘蛛は刀の切っ先を地面近くに下げた。
 「助けてくれ、と申すのか」
 「うむ。この俺を逃がせ」
 紅蜘蛛が頷く。
 「そうか。分かった」
 ここで紅蜘蛛は横を向き、佐助の顔をほんの少し垣間見た。

 この時、佐助は一瞬、紅蜘蛛が寝返ってその男の側につくのではないかと思い、身を固くした。
 女ながら紅蜘蛛はやっかいな剣士だ。
 その稀代の剣士と、この鬼がいざ手を結んだら、とてもではないが、自分たちの手に負えなくなるからだ。
 しかし、佐助の想像に反し、紅蜘蛛は男の方にくるっと向きを変えると、すかさず男の耳の下に刀を深く突き入れた。
 「ぐぐぐぐ」
 呻く男に紅蜘蛛が言い放つ。
 「愚か者め。わたしの兄は恩着せがましいことなど言わぬ。助命を求めたりもせぬ。お前は前の戦いの時に、兄の血を少し舐めて、兄に化けられるようになったのだろう。死ね。この化け物め」
 この機をけして逃すまいと、佐助が鬼に躍り掛かる。
 「紅蜘蛛。身を引け。それがしが止(とど)めを刺そう」
 その言葉に応じ、紅蜘蛛が二歩下がると、佐助が大上段に構えた刀を一閃した。 
 「とおりゃ」
 佐助の刀は男の首を「ずだん」と刎ねた。
切り離された鬼の頭は胴体から離れ、ごろごろと地面に転がった。
 鬼の頭が動きを止めると、それは何時の間にか、最初に現れた女のものに戻っていた。
 紅蜘蛛と佐助は、化け物が確(しか)と息絶えたのを見届けると、ほとんど同時に地面に尻餅をついた。
 さらに二人は、同時に「ふう」と溜息を吐いた。
 「何と怖ろしい化け物だったことよ」
 佐助はそう呟くと、精も根も尽き果てたように項(うな)垂れる。
 そうして、そのまま二人は地面の上に仰向けに横たわった。

盛岡城址
盛岡城址

 しばらくの間、二人は夜空を仰ぎ見ながら、息を整えた。
 佐助は上を向いたまま、紅蜘蛛に語り掛けた。
 「紅蜘蛛。ぬしはこの地を何故『不来方』と呼ぶか存じておるのか」
 紅蜘蛛が答える。
 「いや知らん。わたしは糖部(ぬかのぶ)の北の方の育ちだからな」
 「この仁王郷には鬼の伝説がある。羅刹(らせつ)という名の鬼の話だ。その鬼はこの地を散々荒らしていたが、三ツ石神社の神さまがその鬼を捕まえてくれたのだ。その時、鬼はここにはもう二度と来ぬという証(あかし)に、岩に手形を残したと言う。この辺り一帯を岩手の郡(こおり)と言い、仁王郷を不来方と呼ぶのにはそんな由来があるのだ」
 間髪入れず、紅蜘蛛が失笑を漏らす。
 「二度と来ぬだと。それどころか、あの鬼のために、今やこんな有りさまになっておるぞ」
 山で三十人、城内で二十人と、全部で五十人の男女が殺されていた。
 その中には紅蜘蛛の侍女のお菊や、二人の手下も混じっている。 
 「してみると、あの鬼め。かなり昔から、幾度もここに来ていたわけだな。人を捕えては己らの食い物にしていたのだ」
 ちょうどその瞬間に、夜空の一角に白い光が走った。
 佐助はそれを見逃さなかった。
 「あれは・・・」
 紅蜘蛛が答える。
 「あの船だ。あの卵形の船が空に還って行くのだ」
 「ここにはあの女鬼一匹だけで来たわけでは無かったのだな」
 「そりゃそうだろう。たぶん、どこか遠い星から飛んで来たのだ。遠くから来るのだから、他にも何匹か仲間がおった筈だろうて。前の時もそうだった」
 ここで二人が体を起こした。
 「だいぶやられたな。この城の家士は壊滅だ」
 城内には各所に屍が散らばっている。
 「まこと怖ろしい敵だった。この世にあんな鬼がおるとはな。これまで想像だにせんかった」
 「わたしは二度目だが、さすがにもう此度で勘弁して欲しいぞ。はは」
 想像を絶する危機を乗り越えると、ひどく心が高揚するものだ。
 二人は互いに視線を合わせ、くつくつと笑った。 

 「佐助さま。佐助さま」
 二人が声の方角に顔を向けると、遠くから近寄って来るのは、佐助の配下の佐藤小六だった。
 「小六。お前は生き延びることが出来たのだな」
 「佐助さまもよくぞご無事で」
 「嘉兵衛は何処ぞにおる」
 「嘉兵衛も何とか生き残りました。酷く傷つけられましたので、城の用人に手当てをして貰っております」
 「そうか。それは良かった」
 佐助は立ち上がって着物に付いた土を払い落とすと、紅蜘蛛に向き直った。
 この時の佐助は、自らが紅蜘蛛に二度も命を救われていたことを、もちろん、忘れてはいなかった。
 「紅蜘蛛。そろそろぬしはここから去(い)ぬるが良い。程なく近在の地侍たちが駆け付けるだろう。ぬしはこの奥州に名高いお尋ね者だからな。侍たちの目に留まらぬうちにこの城を離れるが良いぞ」
 紅蜘蛛は佐助の眼の色を覗き込みながら、その真意を確かめようとする。
 「果たしてぬしはそれで良いのか」
 「ああ。それがしはぬしに借りがあろう。今宵は二度も命を救って貰ったのだからな。ぬしはどれでも好きな馬に乗って、早くこの城から立ち去れ。今宵はもう争い事は沢山だ。ぬしが消えてくれれば、面倒事がひとつ減るでな。ぬしがおらねば、我らは直ちに休めるではないか」
 ここで紅蜘蛛がひとつ顎をしゃくる。
 「承知した」
 返事をする紅蜘蛛の立居振舞は、すっかり元の盗賊のそれに戻っていた。
 佐助はその表情を見て、この女が類まれなる美貌の持ち主であることを、改めて思い知らされた。

 ここに至り、紅蜘蛛は佐助に背中を向けて去ろうとする。しかし、紅蜘蛛が三歩五歩と歩き始めたところで、佐助が背後から声を掛けた。
 「待て。紅蜘蛛。これを着て行け」
 佐助は己の着ていた陣羽織を脱ぐと、紅蜘蛛に放り投げた。
 「これだけ冷えるのでは、朝までに雪が落ちて来るだろう。ぬしのそのなりでは寒かろうて」
 紅蜘蛛は羽織を受け取ると、さっと翻しそれを羽織った。そして再び佐助に背中を向け、暗闇の中に姿を消した。

 小半刻の後、紅蜘蛛の跨る馬の足音が城から遠ざかろうとしていた。
 その時、不来方城の中庭には、佐助と小六の二人だけが佇んでいた。
 「いったい、幾人が生き残れたものやら。もはやこのご家中を立て直すことは難しいかもしれんですな」
 斯様に小六が声を掛けても、佐助は答えず、紅蜘蛛の去った方角を何時までも眺めている。
 まるで惚れた女子(おなご)の後姿を追うような、熱の籠った視線だった。
 そんな佐助の様子を見て、小六が思わず軽口を叩いた。
 「佐助さま。もしや佐助さまはあの女子(おなご)のことが・・・」 
 しかし、佐助は小六に言葉を返さず、己独りで本館に向かって歩き出した。

道程の半ばまで歩いたところで、佐助は急に足を止めた。
 頬に当たる小さな感触に気付いたのだ。
 「雪だ。雪が降っている」
 佐助がふと顔を上げると、深夜の暗い空の上から、ちらほらと小雪が舞い下り始めていた。(了)

(注記)
「里」:この時代の一里は六百~七百㍍である。
「新庄」:今の岩山付近。


[不来方城の歴史]
 不来方城は盛岡城の前身にあたる。築城は平安時代に遡ると言われているが、詳細は詳らかではない。
 戦国時代には、この城は福士一族の居城であったが、九戸一揆の後、南部信直により接収された。
 信直は、三戸から福岡(二戸)に移っていたが、新領は七郡に渡るため、福岡はかなり北に位置する。そのことを浅野長吉らより指摘され、信直は福岡から「森岡」へ居城を移すことにした。
 信直は慶長三(一五九八)年に嫡男利直(初代盛岡藩主)に命じて築城を開始させたが、建設は難航し、重直(二代藩主)の時代になりようやく完成した(寛永十・一六三三年)。
 新城が「盛岡城」と呼ばれるようになったのは、南部氏がこの地に拠点を移し、森岡を盛岡と改称してからのことである。

盛岡城址
盛岡城址

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