九戸戦始末記 北斗英雄伝

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早坂昇龍(ノボル)&蒼龍舎                            



物語の背景と裏話

その20 歴史家が書かない昔話 「豊臣秀吉は存在しない」

 「ハリー・ポッター」と「曹操」、そして「豊臣秀吉」には共通点があります。
 それは何か。
 答は、すべて「架空のキャラクター」であるということです。
 「ハリー・ポッター」や「曹操」は分かります。
  「ハリー・ポッター」は1人の女性作家が書いた小説の登場人物です。

九戸戦後の「還住令」(盛岡藩が書写したもの)
九戸戦後の「還住令」(盛岡藩が書写したもの)

 「曹操」も「三国志演義」という物語の登場人物。
 モデルらしき三国は存在しますが、内容自体は作り話です。
 でも、「豊臣秀吉」は実在の人じゃないの? なぜ架空なの?
 そう思う人が大半でしょう。

 結論を先に書くと、「豊臣秀吉」は「太閤記」という江戸期に成立した物語の主人公です。
 モデルは「羽柴秀吉」という実在の人物ですが、「豊臣秀吉」の人物像は、すべてが後で作られた虚像です。
 これは名前ひとつとっても分かります。
 朝廷の最上位に上りつめるまで、侍としての羽柴秀吉の正式名は次の通り。
 1)羽柴 2)筑前守(または大納言その他) 3)藤吉郎 4)藤原朝臣 5)秀吉。
 この場合、1)は名字、3)は字名(通称名)で、これは大陸流に言えば両方とも「字」です。
 2)は武家官職。武家の場合、最高位は征夷大将軍となります。
 4)は本姓で、氏族と姓(かばね)。
 「氏素性を明らかにせよ」と言う言い回しがありますが、それはこの部分を指します。
 すなわち「古くからの家柄が由緒正しく、朝廷での地位もある」ことを示せ、という意味です。
 5)は諱(いみな)で、その人の本当の名です。

 「豊臣」は、このうちの4)本姓にあたります。 
 朝廷で高位に上り詰めるためには、「源平藤橘の氏姓でなくてはならない」という不文律があり、このため、羽柴秀吉も一時、「藤原朝臣」を名乗っていたようです。
 ただし、名前の後ろの部分である「本姓と諱」は、普段は使わない名前です。
 室町武士が1対1の戦いを挑む時に、「我こそは・・・」と「本姓と諱」で名乗りを上げたかもしれませんが、戦国以後にはこの名を口で言うことはほとんどありませんでした。
 今の感覚で、「諱」に最も近い名前(の一部)を探すと、ほぼ「戒名」となります。
 普段は戒名で人を呼ぶことはありません。

 さて、秀吉が目指していたのは、武家の棟梁ではなく、朝廷のトップです。
 すなわちそれは関白。天皇に次ぐ存在でした。
 そこで、周りから氏素性について四の五の言われないために、本姓にあたる名を天皇から貰います。
 これが「豊臣」となります。
 これで、秀吉は、自らは規格外で「これまでのあらゆる官位官職の者とは違う」別格の存在であることを知らしめました。

 さて、関白は朝廷のトップですので、この世に一人しかいません。
 このため、名前を名乗る時は「関白」だけで良くなります。
名字・字名は、本来その人が誰かを分かりやすくするための標識で、名刺の肩書と同じ。
 「どこそれの」「どういう役職の」という内容なので、関白には必要が無くなるわけです。
 仮に現在で例えれば「日本国総理大臣」です。
 今の総理大臣は数年で代わりますが、関白になれば、天皇に言われるか、自ら辞めると言わない限り、辞める必要はありません。
 すなわち、関白の位に就いてからは、唯一無二の存在となり、署名は「関白」のみで良くなります。
 よって、それ以後の正式な名前は、2)関白 4)豊臣 5)秀吉、となるわけです。
 ただし前述の通り、戦国当時の人が「本姓と諱」の組み合わせで、人の名前を呼ぶことはありません。
 その意味では、侍が「豊臣」「秀吉」という組み合わせで名を呼ぶこと、呼ばれることはありません。

 九戸戦の後、戦乱に巻き込まれるのを避け、山に入ったこの地の民に対し、「還住令」が出されます。
 この時の上方軍諸将の署名が記録として伝えられています。(画像は盛岡藩が書き写したもの。)
 この書状では、浅野長吉は「浅野弾正少弼」、蒲生氏郷は「羽柴忠三郎」と書いています。
 いずれも前半の官職や字(通称名)を使用しています。
 ちなみに、蒲生氏郷は、秀吉から冷遇され、奇天烈な官職ばかり宛がわれたので、これを一切使わず、専ら「忠三郎」という通称名を使用しました。

 さて、それでは「羽柴秀吉」を、誰がなぜ「豊臣秀吉」と呼ぶようになったのか。
 これが「太閤記」となります。
 「豊臣秀吉」はあくまで「太閤記」という物語で登場した主人公のことであって、実在の羽柴藤吉郎とは違います。
 かつての小説家はそのことを踏まえ、皆がきちんと「太閤記」として作品を著しました。
作り話であることを承知して、それを明示していたわけです。

 秀吉の人物像として知られるイメージは、その多くが「太閤記」を起源とするものです。
 例えば、「織田信長の草履を自らの肌で温めた」とか。
 「啼かぬなら 啼かせてみせう」といった生き方をした、などは、総てが作り話です。
 仮に実在の羽柴秀吉の人物像を反映させるなら、「啼かぬなら 娘を犯すぞ 不如帰」が妥当なところでしょう。
 しかもその娘はまだ十歳だったりします。
 秀吉は、家来の室(妻)に目を付け、無理やり離縁させた上に、その妻女と娘とを同時に側室にしたりしました。

 秀吉による小田原攻め以後の行状(凶状)が絶えて書かれないのは、「太閤記」に記載が無いことに加え、あきれるほど残虐な仕打ちをしているからだろうと考えられます。
 2度にわたる「奥州仕置き」では、抗う者は「撫で斬り」にせよと命じ、実際に、多くの民を殺させました。
 伊達政宗は、大崎一揆を陰で扇動しましたが、秀吉に詰問されると「自分ではない」と言い張り、言い逃れます。しかし、逆に旧大崎領を領地として宛がわれることになりました。政宗は情報が漏れるのを恐れるあまり、一揆勢をだまし、皆殺しにしました。
 それほど、秀吉が怖ろしかったのです。

 本書の中で取り上げたエピソードに、大崎浪人の某が「関白様が手こずっておられる一揆勢をそれがしが鎮めて見せます」と言った件があります。その浪人の言葉を伝え聞いた秀吉は「即座に斬首を命じた」と記録に残っています。家来が「その者がそういうことを申しております」と言うのを聞き、その言葉の中の「手こずって」という言い回しが癇に障り、打ち首にしたのです。
 秀吉にはこの手のエピソードが山ほどありますが、一般にはまったく知られていません。

 さて、中高年の中には「秀吉好き」が沢山おられます。
 このため、本書について、「なぜ豊臣秀吉を悪く書くのか」とあからさまに文句を言う人もいます。
 そういう意見は、これまでのところ相手にして来ませんでしたが、これからはきちんと答えることにしました。
  「私が書いているのは羽柴秀吉であって、豊臣秀吉という架空のキャラではありません」
 ついでに「いい齢こいて、『ハリーポッターが好き』はないだろ」とも。
  「秀吉好き」は「ハリー・ポッター好き」と大して変わりませんよ。
 (ちなみに「ハリー・ポッター好き」を見下しているわけではありません。架空のキャラを実在と混同することが愚かしいという意味です。念のため。)

 ほんの少し調べれば、「羽柴秀吉」の本当の姿はわかります。
 一度「豊臣秀吉」ではなく「羽柴秀吉」についてお調べになっては如何でしょうか。
 たぶん、がっかりなされるとは思います。

 ※注)この記事は、「日刊早坂ノボル新聞」に掲載した内容と概ね同一です。

その19 一戸城攻防戦と戦陣図

 第4巻の「紅蓮」の章では、工藤右馬之助や疾風らが率いる九戸軍と、蒲生軍との間で、一戸城をめぐる争いが描かれます。この部分が難しいのは、北館跡を除き、現在では城郭跡の上に住宅が立ち並んでおり、また400年前とは地形がかなり違っているだろうことが疑いないからでした。
 攻防戦を詳述するのに、まず、「一戸城がどのように構成されていたか」を推定するところから始めなくてはなりません。
 他城と異なり、一戸城はあくまで城郭群で、各館が比較的独立したような配置に見えています。
 実際、この城は、河岸段丘の上に築かれた平山城だったので、「攻めやすく、守りにくい城」だったようですが、しかし、包括的に防衛する仕組みも考えられていただろうと見なしました。

 西側は馬渕川が流れており、平坦な地勢となっています。
 もし攻めるとすれば、主にこちら側からとなりますので、神明館の手前の道に大手門があっただろうと推定しました。
 物語の中では、さらに周囲に塹壕が掘られ、土塁が築かれたと想定してあります。

 もし、自分が九戸政実であったとして、この一戸城の欠点とも見える「外から入りやすい地形」を利用して、敵を倒すならどうするでしょうか。 
 私なら、出来るだけ多くの敵を城中に引き込んで、外側から火を掛け、焼き殺してしまいます。
 火攻めは東西で「二」の字を書くように焼いた後で、馬渕川から山手を取り囲むように円形に焼いていったと創作しました。
 天正時代には現在の国道四号線にあたる位置に道はなく、東側の山腹にかろうじて人馬が通れそうな細道があります。
 もし自分が政実なら、この山腹の道で、城が焼けるさまを眺めるだろうと思います。
 物語では、政実の隣に立ち、城から上がる炎を見た大湯四郎左衛門は、「よもや、我らはあの何万人もの兵力を誇る上方のやつらに、ここで勝ってしまうのだろうか」と呟きます。
  
 この「紅蓮」の章では、一戸城の炎上=九戸方による火攻めの傍らで、紅蜘蛛お蓮と工藤右馬之助の恋情が燃え上がる様子が描かれています。
 紅蜘蛛は右馬之助の命を救うために、己1人が城に踏みとどまり、爆薬に火を点じます。
 神明館の主館は大爆発を起こし、多くの蒲生兵を道連れに崩れ落ちてしまいます。

一戸城攻防戦  布陣図
一戸城攻防戦 布陣図

その18 沼宮内城攻防戦と城内配置図

 岩手郡に残された伝説によると、「九戸の戦の際、沼宮内城は九戸党によって支配された」とされています。ただし、このことは、天正十九年一月の三戸南部による宮野(九戸)城包囲とともに、盛岡藩の正式な記録からは抹消されています。
 江戸幕府開闢から7、80年の後、各藩で自藩の正史が整えられますが、この時に、自らの不名誉な記録や都合の悪い事実は消去されたようです。

沼宮内城攻防戦 配置図
沼宮内城攻防戦 配置図

沼宮内は北奥の交通の要衝で、ここを起点として道が東西南北に別れます。
 よって、この地を押さえることは、物資の輸送を支配することと同じ意味を持ちます。
 このため、三戸九戸の相克が深刻な状況に至った時、真っ先にこの地を押さえようとしたであろうことも、十分に理解できます。
 この他、沼宮内については、「九戸戦の際、上方軍5万騎がこの城を訪れ、城内で軍議を開いた。南部利直が上方軍を出迎え、軍議に参加した」ことなどが伝えられます。
 このことは、すなわち、1)九戸戦の緒戦において、沼宮内城が九戸党に奪われた。2)上方・三戸連合軍で、この城を攻略し、奪還した(その結果、軍が入城した)、と解釈すると辻褄が合います。
 九戸党が押さえた時の沼宮内城主を河村民部とする伝もあるようですが、民部は16世紀半ばに活躍した地侍ですので、時期が合致しません。同じ官職名を名乗った当代城主がいる場合は別ですが、概ね河村治部頃の話とすると、九戸戦の時期に合います。

 ところで、本作の中で沼宮内城の攻防戦は重要な骨子となっていますが、城の構造に関する資料が得られませんでした。発掘結果等の資料も見当たらないので、あまり大掛かりな発掘作業は行われて来なかったのかもしれません。
 実際に沼宮内城を訪れてみると、主要な部分は多く崩れてしまっています。
 残っているのは、大手門周辺のみで、南郭の周囲にあったはずの搦手門跡などは判別できないようになっています。また、外郭は大半が崩れており、かつての姿とはかなり違うのではないかというのが実感でした。

 城の西側や南郭周辺はかなりの傾斜ですので、本作ではこれを「山のかたちが変わるほど爆破された跡」と位置付けました。
 この他の配置については、航空写真や足で歩いてみた距離感から構成しましたが、何分、詳細がわかりませんので致し方ありません。

その17 赤虎と紅蜘蛛

 この物語の中で、純粋に創作によって作られた人物と言えるのが、赤平虎一と紅蜘蛛お連です。
 第1巻で厨川五右衛門(疾風)は、岩泉で毘沙門党の赤平熊三らを倒します。
 この熊三は赤平三兄弟(虎一、窮奇郎、熊三)の末弟でした。
 弟を殺されたことの復讐のために、長兄の赤平虎一(赤虎)が、すぐさま三戸の伊勢屋を襲います。
 疾風はこの赤虎を死闘の末に倒しました。
 赤虎はこの物語の冒頭で命を落としますが、紅蜘蛛との関わりの中、回想場面で度々登場します。
 そこでは、赤虎はただの悪党ではなく、悪徳商人や戦に乗じて私腹を肥やす侍を襲い、民に分配する側面も持ち合わせていることが明らかになって行きます。
 赤虎自身が戦で親を殺された孤児で、生きていくために強盗団を組織し、かつての自分と同じような孤児たちを救い一戸西方寺に預けたりもしているのです。 

 紅蜘蛛お連は、幼少時に赤平虎一によって拾われ、長じるまで守り育てられてきました。
 この紅蜘蛛の最初のイメージは、金庸の小説『神雕侠侶』に登場する李莫愁のような強烈な悪女キャラでした。人殺しを何とも思わぬ悪女でありながら、その反面、惚れた男のことを一途に思い詰める純情さをも併せ持つ。
 そんな女性に活躍して欲しいと考えたのです。
 
 お蓮が十歳の時、戦乱のどさくさで両親を亡くし、お蓮は妹のお芳と姉妹二人だけになります(第2巻)。二人は飢えに飢え、妹が餓死寸前となったところで、お蓮は道を進む盗賊団の前に立ちました。
 「お前たちは盗人であろう!」
 年端も行かぬ女児が自分たちの前に、両手を拡げて立っています。赤虎は女児の考えを問い質します。
 「悪人に向かって、お前は悪人かと訊く。いったいぬしは何用でそこに立つのだ?」
 お蓮は、自分のことを「買うてくれ」と申し出ます。
 お蓮は妹の命を救うため、「ただ己が女であることを武器とみなして盗賊の前に立った」のでした。
 赤虎はお蓮の度胸と機転をいたく気に入り、妹として育てることにしました。
 赤虎も元は戦災孤児であったため、お連の境遇を熟知し、理解したのです。
 これが赤虎とお蓮の最初の出会いでした。

 お蓮が十七歳の時、三戸の町で、平間清十郎と出会います(第3巻)。
 平間清十郎は刺青師で、道で若侍たちに襲われたお蓮を救いました。
 お蓮は、献身的に自分の世話をしてくれる清十郎のことを愛するようになり、自らの背中に刺青を入れてもらうことにしました。
 その刺青が完成間近となった頃、平間清十郎は三戸の役人によって捕縛され、殺されてしまいました。
 お蓮はそのことにより、侍や役人に深い恨みを抱くようになりました。
 悪女・紅蜘蛛の誕生です。

 十年の後、お蓮は工藤右馬之助と出会います。
 容貌は平間清十郎とは似ていませんが、言葉の端々が清十郎を思い出させる人物でした。
 いつしか、お蓮の心の中では、平間清十郎と右馬之助の姿が重なるようになるのでした。
 第4巻、第5巻では、紅蜘蛛お蓮と工藤右馬之助とは、互いに惹かれあい、縁によって結ばれて行くのです。

 この物語の基調となるのは、「不屈」と「再生」です。
 これは、力をもって北奥の民を服従させようとする悪鬼(羽柴秀吉)に対する抵抗の物語であり(「不屈」)、どんな境遇に落ちようと何度でも這い上がろうとする名も無き民の物語でもあります(「再生」)。
 赤虎と紅蜘蛛は、後者の生き方を体現するキャラクターであり、この物語の陰の主役です。

 話の流れで、本作の中では、赤虎の生き方や考え方を十分に表現することが出来ませんでした。
 このため、別に「盗賊の赤虎」シリーズを書くことになり、短中編4作を上梓しました(さらに1作を予定)。
 赤虎は30代で鬼女の棲む島に渡り(「島の女」)、40歳で鹿角の大猿退治に加勢します。
 40代の半ばで、宇宙から来た鬼と戦い(「峡谷の怪物」)、47歳頃には惚れた女性に会うために地獄に赴きます(「無情の雨」)。
 地獄を訪れた際の宿縁がもとで、後に、三戸伊勢屋の前で、厨川五右衛門と決闘し命を落としました(「雪の降る朝に」)。この作品は、「九戸戦始末記 北斗英雄伝 第1巻」の前段における伊勢屋前での決闘を赤虎の側から見たものでした。

 赤虎の人格を書き終わると、その次は紅蜘蛛シリーズが待っています。
 悪女紅蜘蛛が奥州を跋扈する日は、そう遠くありません。

その16 葛姫の伝説

この物語の登場人物で、一番最初に固まったのが、葛姫のキャラクターです。

かなり前に、山奥に棲む姫君の話を読んだことがあります。
岩手郡(いわてのこおり)の伝説だったように記憶していますが、北上山系の山奥に、美しい姫君が数人の従者と共に住んでいて・・・という断片的な伝説です。

私の郷里、姫神山の麓では、各所にアイヌ遺跡が残っており、子どもの頃には、そんな遺跡のいくつかをほじくり返しに行きました。
この記憶と、姫君伝説が結びついて、時折、夢の中に「アイヌの姫君」が現れるようになったのです。

25年近く前に、二戸宮野城(九戸城)を訪れた際、十倍を超える敵と戦った地方国主の姿に感銘を受けたのが、この作品を思い立った契機でした。
しかし、執筆の直接的なきっかけは、この姫君です。
宮野城見学から帰った夜に、夢に現れたのが、この「葛姫」。
火攻めに遭い、煙に囲まれながら、宮野城を眼下に見下ろしている姫のイメージが鮮烈でした。

アイヌの姫なので、葛姫は常に自然神と共にあります。
姫の周囲には、アイヌ兵ではなく、動物たち(作中では狼)がいるのも、自然のなりゆきです。

冒頭の登場場面を読んだ人の仲には、狼に囲まれた姫の印象から、アニメの「も〇〇〇姫」を思い浮かべる人もいるようです。
もちろん、この物語を読み進めれば、まったく異なるコンセプトに拠っていることがわかるだろうと思います。

本作のテーマは、不屈と再生です。
この物語の題名は、北斗妙見の神命により、民を守るべく立ち上がった英雄のことを指していますが、真の英雄はたった1人、九戸政実だけです。
政実のみが、この戦の行く末を見極め、より多くの北奥の民を救うことを念頭に置き、様々な策を講じて行きます。

かたや登場人物の大半は、各々が各々なりの困難を抱えていました。
しかし、巨大な悪(秀吉)に立ち向かうことにより、めいめいが自己のあるべき姿を再確認します。
この物語の中では、夢や理想が語られることはなく、ただ、生きることの意味を知るべく、這いずり、あがく姿があります。

葛姫は、岩手郡に残る最後のアイヌでした。
同じアイヌの血を受け継ぐ、五右衛門(疾風)と出会うことで、「自分はけして孤独ではない」ことを知ります。

書籍化を進める中で、葛姫の出典となる岩手郡の説話や伝記を探していますが、どこに仕舞ったか、書棚に見つかりません。
イメージの根源となる人物と、その人ゆかりの地が明らかになれば、さぞ楽しいだろうと思いますが、さて一体、どこにいったことやら。

その15 羽柴秀吉と上方軍のイメージ

 25年くらい前、たまたま九戸城(宮野城)を訪れた際に、「いつか九戸政実にまつわる物語を書こう」と思い立ちました。しかし、その後15年以上もその機会がありませんでした。
 具体的に資料を集め、メモを取り始めたのは、竹下内閣の頃だろうと思います。
 竹下内閣で、大規模店舗法が改訂され、従来は商業密集地域では出店できなかった大型スーパーが、事実上、どこでも立地できるようになりました。
 程なく、地方都市では大資本経営の大型店が続々と開店することになります。

 大資本が地方へ進出するに当たっての販売戦略は、まさに征服と支配です。
 地方で小売店を営む知人の経験を、具体的な例として挙げます
 その店には、毎日、制服組が商品の値段をチェックしに来ました。通常は2人組で、2人はその場でメモを取って帰ります。自身の大規模店で、その店と似たような品目を、少しでも安く陳列するためです。
 これは、商業モラル上、考えられなかった卑怯な行為です。
 (「同業者の方お断り」のメモは、よく電器量販店などで見ることが出来ます。)
 しかし、その直接の担当2人は勤め人で、そんな商業慣行など知りません。会社に命じられたので、他店を回っているだけです。
 大型スーパーの仕入れは、商社が行っており、海外から輸入した安価品です。
 価格で勝負をすれば、市場や卸経由の一般小売店は、勝負になりません。都合の良いことに、ほとんどの消費者は不勉強で、値段のタグしか見ない。
 このため、執拗に価格競争を仕掛け、周囲の競合店を潰してしまえば、あとは自由になります。
 ここでは「とにかく支配すること」が優先されています。

 これは、戦国末期に羽柴秀吉が行ったことと、まったく同一です。
 秀吉は小田原を攻め取った直後に、「俺に従え。さもなくば根絶やしにする」と宣言します。
 みちのくに対しては、「逆らう者は撫で切り」と断じ、その言葉通り、次々に滅ぼして行きます。
 各地を滅ぼさなくてはならない理由は簡単で、従来の家臣に与える褒賞が必要だったからです。
 滅ぼすには滅ぼすための口実が必要ですが、天下の大勢が決した後は、あからさまに叛意を示す者は無くなってしまいます。
 そこで、秀吉は「小田原に参陣しなかった」という言い掛かりで、奥州仕置きを発動するのです。

 ところで、竹下内閣の後、程なく小泉内閣が誕生しますが、少数派だった小泉氏は衆院選で大勝すると、態度を一変させました。自分こそが改革(=正しく改める)の旗手で、持論に反対する人を、「抵抗勢力(=悪)」と呼んだのです。
 党内で異論を唱える者は、党から放逐しました。

 これこそ「撫で切り政策」で、羽柴秀吉の手法と同じです。
 この物語のキャラクター像のうち、「羽柴秀吉」はかつての小泉氏の姿、「上方軍」は流通大手の拡大戦略をなぞらえるものとなっています。

 ところで、震災・津波で基幹交通網がストップした時、大型店の食料品棚は、たった数日で品切れになってしまいました。都市部では「米が買えない」と、半ばパニック状態に陥っています。
 しかし、大型スーパーからさほど遠くないところにある米屋さんには、米袋が大量に積まれていました。
 従来型の卸問屋を経由する中小小売店では、「お1人○○まで」の制限が掛けられこそすれ、商品が払底することが無かったのです。
 心臓の冠状動脈のように、縦の流れしか持たない構造の場合、いざどこかが詰まると、生死に関わる事態となってしまいます。ところが、段階的なつくりで、横の連絡もある構造の場合、動きはゆっくりでも、その分、各所に余裕が出来ます。
 どちらか一辺倒になると、片方の長所が失われてしまうということです。
 

その14 三好平八という人物

「九戸戦始末記 北斗英雄伝」で書こうと考えていたテーマは2つあります。
1つ目は「不屈」の精神です。これは、九戸政実や厨川五右衛門(疾風)ら、日頃は寡黙な登場人物たちが担います。
もう1つのテーマは「再生」で、どんなに苦境が続こうとも、捨て鉢にならない限り(人生を諦めない限り)、再起は出来る。年齢も、男女も、また如何なる境遇でも、立ち直る機会はあるのです。
この「再生」は三好平八や紅蜘蛛お蓮が、自分なりに体現していきます。

三好帯刀(たてわき)平八は元々は三好康長の隠し子だったという設定です。
一時三好家の養子に入っていた羽柴秀次と、数年前に話をした事があります。秀次は、ひょうひょうとして物事にこだわらない平八に魅力を感じていました。この為「九戸党に平八が加わっている」事を聞くと、「生かしたまま連れて帰れ」と蒲生氏郷に命じました。

平八は奥州仕置きで大崎に来た木村吉清の下にいましたが、人殺し明け暮れる毎日に嫌気が差し、大崎一揆に紛れるように北奥に来ました。
岩泉で、子どもたちを狼から救おうとしている疾風に出会い、その仲間になります。
侍としてはイマイチだった平八ですが、疾風と行動を共にするうちに、次第に自己を回復し、何時の間にか、工藤右馬之助にも一目置かれるほどの人物に変貌しました。
平八の物語ラインは、ダメな中年男が再起するというものなので、オヤジ的には嬉しい話です。

その名が示すとおり、三好平八は、「七人の侍」で千秋実さんが演じた林田平八をモチーフとするキャラクターです。
この平八は、「荒野の七人」では、C.ブロンソン演じるベルナルド・オライリーに該当します。
オライリーの最期は、子どもたち3人を守ろうとして銃弾に倒れるというものでした。
これに敬意を表し、この物語でも、三好平八は子ども3人を守る為に命を落とします。
平八の最期を見守るのは紅蜘蛛お蓮ですが、これも「再生」人脈のメンバーとなってます。

その13 二戸郡の交通路

右図は、出典は不明ですが、二戸郡の古地図です。
「36年調」とあり、旧国名も付記されていますので、明治のものだろうと思われます。

福岡(二戸)に向かうルートとしては、やはり真っ直ぐ北上する道が主要なものとなっています。
これは江戸時代の陸羽街道(現在の国道4号線の旧道)にあたり、中山峠の東がやや難所ですが、最もスムーズに通行できる道です。
九戸戦に書かれている上方軍の侵攻ルートについては、「末の松山」(折爪岳)越えなど、東西からの難しい道程が記載されています。これは「ここを通るのは大変だ」という意識があったからだろうと考えられます。
実際には、上方の主力である蒲生軍は、やはりこの道筋を通り進軍しました。

二戸郡古地図
二戸郡古地図

その12 宮野(九戸)城 包囲布陣図 その2

 画像の図は、古文書の間からたまたま出て来た宮野城の包囲布陣図です。知人の古書整理を手伝った際に、偶然出てきました。謄写版で刷られており、紙質から見て、明治時代から昭和初期までのものと推定されます。
 解説が無く、これ1枚きりなので、出典はわかりませんが、他の資料と比較してみる限りでは、『二戸郡誌』掲載の図とほぼ同じ内容となっています。
 「松の丸」が単純な高台として描かれており、また本丸や二の丸などの表記もありませんので、きちんとその当時の状況をふまえて作られたことがわかります。 (注:九戸戦当時には、「松の丸」そのものが無く、「丸」という言葉も無い。)

宮野城包囲布陣図(「二戸郡誌」と推定)
宮野城包囲布陣図(「二戸郡誌」と推定)

その11 九戸戦の最大の謎

九戸戦における最大の謎は、浅野家家伝の一節です(『寛政重修諸家譜』)。
宮野城の開城の前夜、九戸政実が浅野長吉(政)の陣を訪れた。政実が降伏の条件として、最初に提示したのは、「南部信直の所領の安堵だった」とされています。

南部信直は、政実がそれまで戦ってきた仇敵です。また、羽柴秀吉に九戸征伐を訴えた張本人でもあります。
それなのに、何故、その男の所領の安堵を願うのか。

要するに、九戸政実が見ていたのは、後に南部家が捏造した九戸戦に至る経緯とは、まるで違うものだったということです。おそらくそれは、領土に関する野心とか、羽柴秀吉への対抗心などとは全く無縁のものだったに違いありません。

政実の心の中には、どんな思いあったか。
九戸戦の背景には、どんなドラマがあったか。

これまで「政実は時代の変化を察知できなかった古い時代の国主」だと位置付ける歴史家が多かったのですが、これは南部家の「作文」を信用した結果です。

北斗妙見は、九戸神社の守り神で、妙見菩薩の転じたもの。
妙見とは、「先を見通す者」の意です。
よって、この物語の題名に、「北斗」を冠するのは、ある意味必然のことです。

最終章である「北斗妙見の章」には、その総ての謎について、答を記してあります。

その10 宮野(九戸)城包囲戦の布陣図

天正19年8月25日以降の宮野(九戸)城の包囲に関連し、上方征討軍の布陣図を示します(その1)。
包囲布陣の1つが、馬渕川の西岸には何人も陣を構えなかったとするものですが、本作では最初には、奥州諸候はこの位置に布陣したと仮定しました。

また石田三成については、宮野城の周囲にいたかどうかは不明です(資料なし)。
実際にはここまで来ていなかったケースもありそうですが、他の浅野、蒲生と同じ「軍監」という立場でしたので、近くには来ていたのだろうと考えられます。

宮野包囲戦 布陣図その1開戦当初
宮野包囲戦 布陣図その1開戦当初

こちらが「九戸郡誌」など、信憑性が高いと伝えられる布陣を考慮した本作の布陣図になります(その2)。
馬渕川の西岸から、奥州侍が南北に分かれているのが特徴です。

重要なポイントの1つは、岩谷橋付近を大浦為信が押さえていることです。
開城の前夜、宮野城からは、大勢が城を逃れ出たようで、その大半は津軽・出羽に達しています。
1千家族を優に超える数ですので、これを可能とするには、城から落ちようとする人々を黙認する勢力があった筈です。
そうなると、北奥の中で唯一、九戸政実と秘密同盟を結んでいた大浦為信以外には、有り得ない話となります。

大浦為信は粗暴な振る舞いが伝えられる一方で、情に篤い人物であったことも知られています。
場合によっては、罪を咎められる行為であった筈ですが、元々胆の太い為信のことですから、南部信直に睨みを利かせながら、落人を黙って通したのだろうと考えられます。
 
◇図の注記◇
○「郭」:九戸戦当時には、まだ「丸」という言葉は無い。「主郭」=本丸、「二の郭」=二の丸となる。
○「西の台」:松の丸のこと。「松の丸」は蒲生氏郷が九戸戦後、城を改修した後に出来たものである。
○石田三成:九戸戦の宮野城攻防戦では、石田三成の足跡は不明である。この図の布陣図は本作による推定である。

宮野城包囲戦 布陣図 その2(開城前夜)
宮野城包囲戦 布陣図 その2(開城前夜)

その9 侍の名前の呼び方

戦国時代の侍の呼び方について、一般的な知識は次のようになります。

例えば織田信長は次の通り。
織田 弾正忠 三郎 平 朝臣 信長
 ①「織田」 → 名字(苗字)。「字名(あざな)」であり、元々は領地を示すもの。
 ②「弾正忠」 → 官位・官職。天皇(後には領主)から与えられた職名。
 ③「三郎」 → 通称名。普段その人を呼ぶ時の名前 (主に身内)。
 ④「平」 → 氏族名。血筋を表わし、多く源平藤橘。
 ⑤「朝臣」 → 姓(かばね)。古代に存在した家の家格。
 ⑥「信長」 → 諱(いみな・忌み名)。本名。※現代で、これに近いものは「戒名」
  
 重要なことは、中央の通称名を境にして、2つのブロックに分かれること。
 呼び方としては、次の3通りになります。
 A 「織田弾正忠」  : 一般的な呼称
 B 「三郎」       : 家族など親しい人の間で
 C 「(平朝臣)信長」  : 本人か、かなり親しい人(身内でなく)
よって 「織田+信長」という呼び方はしませんでした。名字+忌み名の組み合わせが一般的に使われるようになったのは明治以降のようです。

 これを北奥武士に当てはめると、次のようになるでしょうか。

(1)九戸政実   : 九戸 左近将監 五郎 源朝臣 政実
  まず「九戸左近将監」。右近衛府・左近衛府は省略できるので、「九戸将監」でも可です。(本作では、これを採用しています。)
  身内は、「五郎」さま。
  ごく近しい家来、友人は、「政実」さま・殿。なお、九戸の本姓は小笠原ですが、さらにその大本は源氏となります。

(2)南部信直  : 南部 大膳太夫 九郎 源朝臣 信直
  これが幾分ややこしいところ。
 「南部大膳太夫」では、長ったらしくていかにも呼び難いのですが、果たしてどう呼んだのか。
  答えは、蒲生氏郷の書状にありました。
  宛名が、「南部大膳 殿」となっています。なるほどですね。 

その8 浄法寺城と浄法寺修理について

 天正十九年三月のいわゆる「三城攻撃」の時、一戸城を三戸勢が占拠します。城の守備に当たったのは、浄法寺修理(重安)と東中務(信義、後の朝政)でした。
 ところが、修理の弟である浄法寺重行と一族の浄法寺主膳の二人が、「留ヶ崎城が攻められている」との嘘の報告をします。浄法寺修理と東中務は大急ぎで三戸に出発しますが、手薄になった一戸城を、九戸勢が急襲し、奪還してしまいました。この後、一戸城はこの後上方軍が到来するまで、九戸党の支配下に置かれることになります。

 それまでの浄法寺氏は厳密に言うと三戸南部の家臣ではなく、あくまで「客分」の立場として扱われていました。したがって、三戸と九戸の争いが発生した後も、長らく傍観者的なスタンスを取ってきましたが、この明白なしくじりの後、対応が変わっていきます。
 
 同年の夏頃には、南部信直が「浄法寺もこちら側に付いた」と野田某に報せていますので、この辺から三戸に対し家臣として従うようになったようです。 
 なお、浄法寺は5千石ですので、家士(常勤の家来)として認められる大まかな目安は150人程度となります。戦時には動員が掛けられ、3倍から4倍の兵力となるはずですが、それでもわずかに500〜600人です。 

 この春から夏にかけて、浄法寺で何が起こっていたのかが大きな謎です。
 一説によると、一戸城が奪還された後、浄法寺城は弟の重行らによって占拠され、修理は帰城できずに三戸に留まっていた。浄法寺城は、同年六月に大谷吉継の指揮下にあった秋田勢により攻められ落城した。その後、修理が城に戻ったとされています。
 浄法寺城跡の発掘調査では、実際に焼けた痕が土壌に残っているそうですが、果たしてそれがいつのものかはわかりません。翌年の破却の時かもしれません。

 問題は浄法寺が落城したのが六月だということで、まだ上方軍が出発する前のこととされていることです。
そういう情勢で、果たして秋田連合軍単独で糠部の奥深くに攻め入ることができたかどうか。
 三戸南部はそれまで秋田勢ともあまり仲が良くなかったので、秋田勢に味方として遠征すると言われても、そう簡単に受け入れるとは思えません。三戸と浄法寺は目と鼻の先です。秋田が出てくるなら、当然、三戸南部も陣を構えたはずです。また、6月に浄法寺城が秋田勢の支配下に入ったなら、戦が終わるまで、そのまま秋田領になっていた可能性もあります。

 一方、鹿角の伝説では、大光寺の攻撃に曝されつつある鹿倉館(大湯四郎左衛門)を、浄法寺修理が救援しようと駆けつけたが、敵と見誤られ逆に攻撃され落命したとあります。修理はその後も生きていますので、おそらく一族の別の誰かだろうと考えられますが、修理とほとんど同格の者で、九戸党の援軍として大湯に向かったという経緯となると、弟の重行あたりが当てはまりそうです。

 北奥全体の情勢として眺めると、8月の上方軍の来襲に合わせて、西から大谷・秋田勢が寄せてきたと見ると、難がありません。ただし、これでも浄法寺修理が既に三戸方として参じている状況とは食い違ってきます。
 前述の伝説と重ね合わせると、三月以降何ヶ月かの間、浄法寺城を浄法寺重行の一派がずっと保持していたことになるからです。

 このような矛盾を鑑みて、本作では次の通りの流れで解釈しました。
1)一戸城を九戸党に奪われた後、浄法寺修理は浄法寺城に蟄居していた。
2)浄法寺重行、主膳らの叛乱を看過できない状況となり、修理は弟と主膳を攻める。
 (信直による「こちら側についた」の具体的な意味を示す。)
3)浄法寺重行は、兄の攻撃を逃れ、九戸方の大湯鹿倉館を目指した。
4)浄法寺の旗印を見た大湯勢は、「修理が攻めてきた」と解釈し、これを攻撃する。
5)鹿倉館は大光寺に攻められ、大湯四郎左衛門は宮野城に逃れる。

 浄法寺重行は浄法寺の家史から抹殺されていますので、本来どこを所領としていたかは不明ですが、浄法寺領内の諸城のうち、浄法寺一族が居城した城で、かつ誰がいたかわからない城を宛てるものとします。

 この辺は、本作はあくまで小説ですので、有り得そうなラインを想定して書いても、それほど問題が生じません。
※この記事は、ブログ(日刊早坂ノボル新聞)に掲載したものとほぼ同一内容です。)

その7 沼宮内城攻防戦の謎

 沼宮内に在城した地侍で、最も有名な人物は河村民部です。(河村は川村と書かれることもあります。)
民部が活躍したのは主に室町末期で、いわゆる戦国時代前半までとなります。なかなかの人物で、民部が切り拓かせた田畑は、後に「民部田」と呼ばれるようになります。
 この民部の子と推定されるのが河村治部で、九戸戦当時には、この治部が城主だったようです。交通の要所ではありますが、沼宮内城自体はさほど大きな城ではありません。

 沼宮内は南北交通(後に奥州街道・道中と呼ばれる)の要所に位置し、北奥の主要な道がここで交差しています。
 九戸戦中、戦後の言い伝えで、主要なものは次の2つです。

1)上方軍が遠征し、この沼宮内城で軍議を開いた(総勢5万人)。この時、地元勢では南部利直が参加した。

2)九戸戦の折に、九戸党によって攻められ落城した。これは岩手郡の伝説として残されていますが、南部藩の正史には採用されていません。治部は脱出し、九戸戦後に戻りますが、翌年、上方からの命令で城は壊されることになります。

1)の「上方軍が沼宮内で軍議を開いた」のは、時期的に見ると8月時点のことになります。そうなると、その時点では、2)は成り立たないはずですので、2)が起こった時点はそれより前ということになります。

2)→1)の順に起こったと仮定すると、辻褄が合いそうです。
なぜ城として小さい沼宮内城に5万人もの軍勢が寄せたのか。城の中には全員が入りきれません。
そこで、それまで九戸党に支配されていた沼宮内城を、「上方軍が攻めた」と見なしてみると、初めて納得できる内容となります。
大軍をもって城を攻め落とした上で、軍議を開いたということです。

今となっては、史実を確認する手立てはありませんが、文脈としては大いにありそうなことですので、本作ではこの流れを採用しました。

その6 田頭城攻防戦と平舘(一戸)正寿

 九戸の戦いの途中で、「平館城の一戸某が田頭(でんどう)城を攻め落とした」ことが伝説として伝えられています。地元の言い伝えでは、この人物は一戸正包(まさかね)となっています。「正包」を読みの同じ「政包」とすると、南部藩の記した平館城主の名に一致しますが、そうなると九戸戦が始まる前に、一戸城にいた兄・政連を殺した人物ということになります。
 でも、南部藩の正史によれば、政包が一戸城を断絶させたのは天正9年頃となっており、その後、政包は留ヶ崎に申し開きをした後、逐電したことにされています。
 また政包が兄を暗殺した背景には、「九戸政実がそそのかした」という、まことしやかな裏話が記されています。

 この九戸政実の関与などは、後代の作文だろうと考えられます。
 なぜなら、一戸政包の逐電の後、息子の正寿が平館城主として立派に跡を継いでおり、平館一戸氏が滅亡するのは、九戸戦の時だからです。この時代に、謀反の気配のある小領主を、10年間もの間、領地替えをせず放置しておくでしょうか。

 一方、平館の伝説では、「政包が田頭城を攻めた」としてありますが、城主としてずっと政包がそこにいたことになり、一戸政連を殺した話まで作り話だということになります。
 あれこれ古文書をめくってみると、父親は「政包」、息子は「正寿」という表記が多くなっているようですが、伝説の一戸「正包」とは、息子の正寿の方を指しているのではないでしょうか。

 1)一戸城の一件については、政連に粗暴な行いがあり、弟の政包が兄を廃嫡し、兄の子を立てようとし、誤って両方とも殺してしまった。
 2)政包は三戸に申し開きをしたが、疑いをもたれていると思い、自らは逐電した。跡は子の正寿が継いだ。
 3)九戸戦では、平館は九戸方に参じ、三戸方を表明した田頭城を攻め落とした。

こう考えると、自然な流れになります。もちろん、事実は「小説よりも奇」であることが多いため、的を射ているかどうかはわかりません。
田頭城を攻めた平館軍は二千を超えますが、平館周辺の兵力とは考えられないため、そこでは九戸党の応援があったものと考えられます。

その6 秀吉に立ち向かう政実と、戦わぬ政宗

 伊達政宗は、葛西・大崎一揆の際に、裏で扇動していたとされています。その根拠は、一揆勢をけしかけるような書状が、現にいくつか残っているからです。しかし天正19年の春先に、羽柴秀吉により一揆扇動の嫌疑を受け、詰問されると、政宗は「これはオレの書いたものではない」という言い逃れで、難局を切り抜けます(閏一月)。
 その後、政宗はなんと葛西・大崎旧領を与えられます(中心拠点は岩出山)。もちろん、まだまだ一揆勢がバリバリ元気な頃で、その地を手中にするためには、一揆そのものを鎮圧する必要がありました。

 困った政宗は、大軍勢を率いてこの地に向かい、蒲生氏郷と共に一揆勢を皆殺しにしてしまいます。
 この辺、よもや自分たちをけしかけた当の本人(政宗)に殺されることとは思わず、一揆に加わった侍や農民たちはまさに目も当てられぬ事態だったことでしょう。

 この時の政宗は、弱冠二十台の半ばで、野望はそれなりにあったかもしれませんが、それを実現する行動力は持ち合わせていなかったようです。秀吉の命令に右往左往したり、あたかも口封じのために一揆勢を皆殺しにした感もあり、「弱々しさ」、「だらしなさ」だけが際立ってしまいます。
 一説によれば、既に無抵抗となった一揆勢を、政宗はなんと2万人も虐殺しています。

 秀吉に一切立ち向かうことなく逃げ回った伊達政宗の、一体どこが「陸奥の英雄」なのでしょうか。
 もうじき政宗の登場シーンが出てきますが、事跡どおりの「根性無し」、「意気地無し」の若者として書こうと思っています。 

その5 偉大なる劇作家たちへのオマージュ

 連載をお読みになり、既に気がつかれた方も多いと思いますが、筆者は、過去の「偉大な劇作家」たち3人に敬意を表しつつ本作を執筆しています。
 この「偉大なる劇作家」とは、W.シェークスピア、黒澤明、金庸の3人です。故黒澤明監督が映画作りにあたり、ショークスピアをお手本としていたのは紛れもない事実です。きっと故黒澤監督も、「オセロ」、「マクベス」には「物語(ドラマ)の総てがある」という認識を持っていたことでしょう。
 本作でも、神に仕える巫女の柊女など、シェークスピア作品を連想させる人物が登場します。
 柊女の登場場面では、3人の巫女が並んで出てきます。ここは読者が「マクベス」の「3人の魔女」を連想してくれれば楽しかろうという思いで書きましたので、どこかで読んだような気がするのは、意図的にそう書いた結果です。

 黒澤映画を連想する場面も数々あります。
 三好平八の「平八」は、「七人の侍」の登場人物の名で、かの名優千秋実が演じた役柄です。
 このキャラには、故千秋実さんの風貌が必要だったので、敢えてこの名にしました。
 また五右衛門党が、多く三人で行動するのは、「隠し砦の三悪人」のイメージを醸し出すためでした。

 キャラと言えば、アクの強い人格が多数登場する物語の代表格が、金庸の武侠小説です。
 紅蜘蛛お蓮は、「神鵰侠侶」に登場する李莫愁という悪女をモチーフとしています。李莫愁は徹底した悪女ですが、その一面で、ただひたすら1人の男を恋い慕う心根を持っています。
 紅蜘蛛お蓮も、盗賊団の女党首だったのですが、工藤右馬之助に出会うことにより、恋慕の情を燃やします。
 この毘沙門党関連の登場人物が、金庸系のキャラで構成されています。赤龍、青龍も、いかにも金庸小説に出てきそうな兄弟ですね。左右の手に大鎌を持つ窮奇郎も然りです。

 物語の構成力では、3人の劇作家に及ぶべくもありませんが、彼らの残した作品群のさわり(もしくは香り)だけでも感じてもらえれば幸いです。

その4 久慈備前は誰?

 久慈氏は16世紀の北奥における主要な豪族のひとつです。
 この系図の中で、紛らわしいのは「久慈備前守」です。久慈備前と称されるのは、ひとまず久慈家3代の政継と4代治継、6代直治となっています。このうち治継は大浦為信の父であるとされています。為信の兄が5代三河守信義になります。
 問題は直治で、直治には男子が無かったので、九戸政実の弟の政親を女婿として受け入れたとされています。この政親は入婿後、政則と改名します。ただし、備前直治と婿の政則は2歳しか違っていません。
ここが混乱を招く所で、久慈備前(直治)と久慈中務(政則)とをしっかり書き分けている書物もあれば、「政実の弟の久慈備前」と書いてあるものもあります。要するに、後者の備前とは政則のことを指しています。

 三迫で斬首された九戸党の将として「久慈備前」がいますが、これは果たして誰のことでしょうか。

 久慈政則の消息は、九戸戦の途中から分からなくなっており、いずれの地で戦死したのかは不明です。
この辺は年恰好が近いこともあり、直治と政則が混同されているということも、あながちあり得ないことではないように考えられます。

 なお本作では、「久慈直治は九戸党に参じ篭城に加わった」、「久慈政則は戦の途中で戦死した」とし、前者を備前、後者を中務と呼称するものとしました。
(当初の諸候配置図では、久慈勢は、久慈備前と久慈直治となっていますが、備前と中務に訂正してあります。)

その3 地名でひと苦労

 この物語の中では、基本的に現代語になるべく近いかたちで表記することを心掛けています。今を生きる人が理解できない言葉を使っても役に立たず、意味がありません。
 かといって、カタカナ言葉(外来語)を使ったり、その当時には絶対存在しない物を出すのは、さすがに憚られます。
 これで一番困るのは地名です。
 九戸戦について書かれたものは、一部の書状を除き、50年以上後のものになります。
 このため、九戸戦当時には存在しなかった名称がいくつか記述されています。

 一例を上げれば、「金田一」城。
 「金田一」は17世紀の半ば頃に生まれた名称なので、「金田一城」なる城は存在しません。
 では、四戸中務が城主だったので、四戸城にすべきかというと、四戸という地名はこれよりかなり東側になっており、さらに九戸戦当時では既にこの地名は使われなくなっています。
 名字に転化した「四戸」のみが残っていたということになります。ただし、困ったことに櫛引氏あたりも、南部晴政から「四戸殿」と呼ばれたりしています。
 本作では、仕方なく四戸中務の本姓の武田を加え、「四戸武田城」と呼ぶことにしました。城の名称に人名はあまり使われないので、あくまで苦肉の策です。

 もうひとつは「月館城」。
 月館隠岐は九戸戦が始まる前は、鹿角毛馬内のわずか百石前後の家臣でした。九戸戦の時に、隠岐は一戸城攻防戦で活躍し、拠点として鳥海の「月館城」を与えられますが、隠岐に与えられる前の名称がわかりません。
 隠岐がいたのはわずかな期間でもあり、この地に新たに城を築いたとは考えられないため、元々何かしら古い城があったところを拠点としたと解釈し、「鳥海古城」と呼ぶことにしました。
 なお九戸戦の後、諸城破却令に従って、この城も破壊され、月館隠岐の所領は鹿角月館村に移ります。

 この他にも「御辺地」(二戸市)などのように、九戸戦当時は存在せず、江戸になってから生まれた地名が多々あり、頭を悩ませるところです。
 「御堂」(岩手町)も、こう書くと一発でどこかわかるはずですが、かなり後になって生まれた地名です。地名の由来となる伝説があり、その伝説が後代のものであるため、これを使うとちぐはぐになってしまうのです。

その2 九戸市左衛門

 この物語には、「九戸市左衛門」はほんの少ししか出てきません。
 この人物について分かっているのは、ごくわずかです。

 九戸政実の長男であったこと。
 幼名は「鶴千代」だったこと。(名前については、九戸市右衛門と記してある資料もあるとの指摘があります。) 
 通常は鶴・亀・松・竹・梅の順となり、鶴千代、亀千代の他にも、子は何人かいたようです。
 なお正室の子が亀千代で、落城の際に死んだとされています。

 九戸市左衛門は、九戸戦より前に津軽大浦に送られ、名字を変えて代々保護されます。その子孫は幕末まで命脈を保ち、明治維新の後、姓を「九戸」に戻しました。
 現在でも、九戸家の末裔は青森にしっかりと地盤を築いています。
 一方、九戸戦の攻め手の大半は、百年も持たず滅びました。
 北一族も、信愛の直系はすぐに絶え、「能無し」とされた愛一の家だけが残ります。
 信愛の養子である北十左衛門は、利直との相克の果てに南部家を飛び出し、利直により殺されます。

 上方軍の羽柴秀次や石田三成は、それより前に滅しています。
 そういう意味では、歴史とは極めて皮肉なものと言えます。

 大浦為信は、九戸戦前後に九戸や大湯の親族・家臣を引き取ります。その後、長らく繋がりのあった石田三成が滅した後も、この縁者も迎え入れています。
 粗暴な振る舞いの主として知られる為信ですが、その実、かなりのリスクを背負うことがあっても、「信義は必ず守る」という気性の持ち主であったようです。

その1 なぜ九戸戦を素材に?

 岩手では九戸政実は、ほぼ知らぬ人のいないほどの有名人。秀吉の天下統一に対し、最後まで抵抗した北奥の雄です。
 しかし、当時の事実関係を直接記した文書は存在せず、ほとんどが70、80年も後に記されたものばかりです。後代に記された物には、完全なる捏造作品もあります。歴史とは、「生き残った者にとっての都合の良い言い訳」ですので、これは致し方ありません。
 当時の一次資料的なものは、当時、上方軍として宮野城を包囲した攻め手の家臣の遺した覚書しか見当たりません。このうちの1つに浅野長吉(政)の家伝書があります。
 これには、「開城の前夜、九戸政実他数人がまずは蒲生氏郷の下を訪れた。氏郷を伴って惣大将の浅野長吉(政)の前に行き、政実が降伏の条件として提示したのは、第1に南部信直の所領の安堵であった」というようなことが書かれています。
 これは藩政期に書かれた九戸戦の経緯や、政実の人物像を悉く覆すものです。
 自分の領土欲から戦を起こした人間の言うことではありませんね。

 果たして何が真実だったのでしょうか。
 これを追及するのには、南部家サイドの残したものは一切頼りになりません。多く自分に都合の良いように書かれたものであろうからです。
 例えば、南部と津軽は藩政の初めからずっと仲が悪かったのですが、お互いのことに関する記述は、全くもって相容れない内容となっています。(いまだに言い争っています。)
 この事態を打開するには、利害関係の薄い立場の者が記した古文書を当たる他はありません。
 よって、関係市町村の文化財課、歴史研究会、図書館を1箇所ずつ回り、その土地のオリジナルな資料を探すことにしました。

 それから15年以上が経ちます。
 岩手、秋田、青森の各地を60箇所以上回り、部屋ひとつ分の資料庫ができました。
 こうして実際、当初の疑問や問題が解決出来たかと言うと、今は余計に混乱しているのかも知れません。藩の公的文書レベルをはるかに越え、見解の相違が多数見られるからです。
 しかし、今回は解明を目的とするのではなく、「本意・心情を汲む」ところが中心ですので、山ほどの見解から「筋の通った話」を取捨選択すればよい話です。
 見切り発進して書き始めましたが、選択肢が多いだけに、余計に「うっかりミス」も出しています。

 しかし、それなりに調査期間を費やしましたので、思いもかけぬ情報を得られた部分もあります。
 大湯四郎左衛門などは、南部も津軽も、さらには地元鹿角での見解も完全に不一致ですが、得がたいキャラクターです。
 また、乱破(忍者)の天魔一族や、岩泉兵部(東孫六)など、歴史の陰に埋もれていた人材を多数掘り起こすことができました。(いずれも実在の人物ですよ。)
 まるで作り話のような「仙鬼」(お仙)という女性も、その根底には、旧玉山村にあった力持ちの「おれん」の伝説をベースとするものです。「岩手郡の猟師(やまだち)」である厨川五右衛門(疾風)のキャラクターは、この「おれん」を殺したのが、玉山常陸に頼まれた猟師だったというところから生まれました。
 本作では、勝手な創作によるものではなく、必ず何かしらの根拠を置くことを基本としています。

 北奥の民にとっては、間違いなく「敵は秀吉」です。
 これまでの「太閤秀吉」のイメージから必ずや引きずり落とすつもりですが、その意味では本作自体が「第二次九戸戦争」だと考えています。
 岩手、青森、秋田は、身びいきからいまだに対抗意識を持っていますが、この辺で手を繋ぎ、ウソで塗り固められた秀吉伝説の打倒のために結集して欲しいものです。

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